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大原治雄作品を語るトークを終えて

清里フォトアートミュージアム 学芸員・山地裕子


 

2016年11月12日、「大原治雄作品を写真家の視点で読み解く」をテーマに写真家・平間至氏のトークを開催いたしました。また、10月21日に行った内覧会には、大原作品の所蔵館であるモレイラ・サーレス財団キュレーターのセルジオ・ブルジ氏と、駐日ブラジル大使館文化参事官ペドロ・ブランカンチ氏がご来館。ブルジ氏による解説と平間氏のトークを、併せてご紹介いたします。

内覧会にて大原治雄作品を解説するセルジオ・ブルジ氏

内覧会にて大原治雄作品を解説するセルジオ・ブルジ氏(10/21)

写真家・平間至氏

写真家・平間至氏によるトーク(11/12)

 

 

 

 

 

 

 

 

開催館によって異なる展示レイアウト

平間氏は、高知県立美術館、伊丹市美術館にて開催された大原展をご覧になられた経緯から、KMoPAでの大原展が「音楽に例えると、別のアレンジ」と表現されました。巡回展は、展示会場によって見え方が異なるケースがありますが、KMoPAでは、他館よりも展示スペースの狭いことが良い方向に働き、「一枚一枚が共鳴し合って、全体がより強い力で伝わってきた」と。また、ブルジ氏も同様に、当館のレイアウトについて「展示室全体が大原の手製のアルバムを想起させる。小さなイメージを集めて見せることで、イメージ同士の関係性も良く表している。」と評価してくださいました。

展示室1

展示室1

展示室2

展示室2

お二人の印象は、まさに本展の展示レイアウトに込めた意図だったのですが、さらに説明を加えますと、大原作品のプリントは、比較的柔らかな調子で、サイズが大きくのびのびとしています。淡々とした印象になることを避けるため、モノクロ・プリントを上下左右に集合させ密度を高めました。モノクロのイメージ同士を近づけることによって、それぞれの中にある“黒”が集合し、壁面全体のインパクトが高まります。例えば、展示冒頭の開拓時代も、労働の苦難の表現は非常に控えめですが、写真を集合させることで、その厳しさや、農業従事者ならではの眼差しも見えて来るよう、また抽象作品は、グラフィック的な配置をすることによって、大原氏の優れた画面構成力や繊細な視点を生かせるよう、そして家族の写真は、大原氏自身が作成した家族のアルバム帖をイメージしながら、日々の出来事と思い出を重ねて行く、家族の歴史を感じられるよう、それぞれ期待を込めてレイアウトしています。

大原作品に見る客観性

平間氏は、まず最初に、大原氏が巨木を倒したセルフポートレイトの作品を前に、重要なポイントの一つを、セルフポートレイトに見る「客観性」と指摘されました。例えば、コーヒー農園が霜害の被害を受けた後、大原は「参ったな」と頭を掻く写真をセルフポートレイトで撮影、そして本展のメインイメージとしている《朝の雲》においては、霜害を乗り越え、自ら原生林を切り開いたからこそ生まれた雄大な空をバックに、くわえ煙草で、手のひらで鍬を操るセルフポートレイトを撮影。それぞれに、かなりの演出を考え、コントロールされた写真によって、“余裕”のある自分を見せ、同時にコントロールできない自然の偶然性を上手く組み込むことで写真が一層魅力的なものになっているのです。

霜害後のコーヒー農園、パラナ州ロンドリーナ、1940年頃 ⒸHaruo Ohara / Instituto Moreira Salles Collection

霜害後のコーヒー農園、パラナ州ロンドリーナ、1940年頃 ⒸHaruo Ohara / Instituto Moreira Salles collection

朝の雲、パラナ州テラ・ボア、1952年 ⒸHaruo Ohara / Instituto Moreira Salles collection

朝の雲、パラナ州テラ・ボア、1952年 ⒸHaruo Ohara / Instituto Moreira Salles collection

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大原は、17歳でブラジルへ移住してから約70年間、欠かさず日記を書き続けました。自分は今、どのような状況にあって、どう感じているのか。日々の天候の移り変わりから、写真用品を含む日々の買い物まで、いっさいを書き留めていたと言います。徹底して自分を客観的に見る資質に加えて、持ち前のユーモアのセンスと洒落っ気。例えば、普段は裸足で遊び回っている子どもたちに、撮影時には真っ白なシャツを着せるなど、質素な中にも美意識と粋が感じられます。大原の写真には、撮影時の演出にかける情熱と、客観的な視点とがバランス良く働いているのです。これらの写真は、発表して、高い評価を得たいなどという欲とは無関係でありながら、撮影に注いだ情熱が明らかに伝わってくる写真だからこそ、私たちは心動かされるのではないでしょうか。

 家族という「実り」、日本に続く「空」

治雄の娘・マリアと甥・富田カズオ、パラナ州ロンドリーナ、富田農園、1955年 ⒸHaruo Ohara / Instituto Moreira Salles collection

治雄の娘・マリアと甥・富田カズオ、パラナ州ロンドリーナ、富田農園、1955年 ⒸHaruo Ohara / Instituto Moreira Salles collection

「大原作品で印象的なのは、コーヒーや柿などの『実り』。子どもも、大原さんにとっては実りのようなものですよね。大原さんの写真には、土の匂いがあるけれど、品格があるというところが最も魅力のあるところではないでしょうか。」と平間氏。脚立から飛び下りる女の子と、脚立を支える少年の写真は、大原作品を象徴する一枚です。この写真で印象的なのは、画面の下部を比較的大きく占める大地。「大地は命の象徴であり、空は日本と繋がっている。危ういようで安定した三角形と鋭角的な印象、それは人としての志、プラス美意識。そして、みのりの象徴である子ども、いろんな要素で象徴的に伝えている写真だと思います。」この写真から想起される植田正治の写真との比較について平間氏は、「(植田正治作品では)鳥取砂丘がホリゾントという言われ方をするけれど、大原さんは、大地と空がホリゾントなのだろうと思う。そこにグラフィックな要素を持って来ている。二人に共通するのは、泥くささや、日本的な情緒性を伝えようとしていないところ。良い意味でドライでありポップ。いろんな象徴的な要素がありながらも、グラフィックとしてとらえているところが似ているところではないでしょうか。(このシーンを)8回撮影して、女の子は楽しそうだが、もう飽きてしまった男の子のぽかんとした表情との差も魅力になっている。カメラアングルがかなり低く、地面を意識的に感じながら撮っている。地面と近づきたいという気持ちで撮っていることがわかる。」と写真家ならではの目線で、丁寧に読み解いてくださいました。

大原作品のセルジオ・ブルジ氏によると、大原は、ある朝、娘を早く起してこの撮影を始め、何度も飛び降りた様子がネガに残っているとのこと。大原が、20世紀初頭のフランスの写真家ジャック・アンリ=ラルティーグのように、即興性とステージ性を持つ写真の特徴を生かし、さまざまな要素をミックスして写真作品を作り上げていく、大変クリエイティブなman of drawing(絵の人)だったと表現しています。

 

銀婚式の空

展示室2最後部

展示室2最後部

展覧会の最後部には、幸夫人の写真を展示しています。1938年、大原がカメラを入手して初めて撮影した一枚、それはオレンジの木の隣で微笑む幸夫人の写真でした。夫人は泥だらけのエプロンを着ています。「撮られるほうも、撮っているほうも初々しい。」と平間氏。その写真の隣に展示した作品は、1940年の撮影で、「農園で仕事をする大原にお弁当を届ける幸夫人」ですが、この写真の幸夫人のエプロンは全く汚れていません。「完全に演出されているのに、自然に見える一枚。日常の中では自然なことを、あえて再現して撮っている。自然さと演出が微妙に重なり合って、この作品の魅力になっているように思う。」また幸夫人と同じ構図のセルフポートレイトでは、室内で写真集を片手に、片手にはコーヒーカップ、口にはつまようじ・・・平間氏は「大原にとって、この“余裕”が、キーワードなのでしょうね。若くして日本から移住し、こんな生き方をした人間がいる、自分の生き様を残しておきたかったというメッセージを感じます。」

幸夫人を撮影した最後のポートレイトの隣には、二人の銀婚式の写真。通常銀婚式の写真と言えば、写真館のスタジオで、あるいは夫婦が力を合わせて建てた家の前に立ってカメラの方を向いている、などの写真を想像します。しかし、大原の銀婚式の写真は、ひたすら大きな空に向かい、大地に力強く立つ二人の後ろ姿なのです。その大地には、木は一本も見えず、草が見えるのみ。「空は日本と繋がっている、一度も帰らなかった大原さんの日本への思いを、僕は空を通して感じる」と平間氏。腕を組んだ二人の背中は、凛として、清々しさ、潔さなど、美徳を追い求めた大原の生き方が象徴的に表されています。

丁寧に構図や光を計算し、撮影された大原の写真。これらは一家族の写真の記録でありながら、これらの表現が後世の人間にも大きな影響を与えているということを、私たちも展覧会を通して目の当たりにしました。平間氏も「これは写真以外ではあり得ないこと。大原さんは、本当に人としてまっとうで素敵な方だったのではないかと感じます。それが写真に反映し、みんなの心を打っている。僕もちゃんとしないと。(笑)」平間氏の、示唆に富み、暖かなコメントに、うなずきながらトークに聴き入る参加者の様子が大変印象的でした。

最後にいくつかご質問を受けた後、参加者の中の男性が、サンパウロ生まれの日系三世だと自己紹介してくださいました。現在、環境教育研修のため清里のキープ協会に滞在中の鈴木エルメスさんは、祖父が京都から17歳でブラジルへ移住。母親は大原と同じロンドリーナ生まれとのこと。祖父母は、日本語で話すことは恥ずかしいことだと、常にポルトガル語で話していたそうです。第二次大戦後、戦勝国ブラジルに住む日系人が苦難を強いられたことをご存知の方も多いと思いますが、鈴木さんの祖父母は、写真や日本語の本を箱に入れて地中へ埋め、祖母は自死を選択されたそうです。目の前の鈴木さんの明るいキャラクターからは、全く想像出来ない現実を私たちは耳にしました。同時代に生きた大原が敢えて撮影しなかったほどの苦しみと、多くの日系人が血と汗を流した時代に思いを寄せ、ブラジルに生きる日系の人々と、大原の写真を介して心を交わす喜びを感じた濃密な時間となりました。

 「昨日まかれた種に感謝、今日見る花を咲かせてくれた」 

家族の集合写真、パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ、1950年頃 ⒸHaruo Ohara / Instituto Moreira  Salles collection

家族の集合写真、パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ、1950年頃 ⒸHaruo Ohara / Instituto Moreira Salles collection

生涯、農業従事者として、写真はアマチュアを貫いた大原。ブラジルで大原の初の個展“Olhares”(「眼差し」)が開催されたのは1998年、89歳で亡くなる前年のことでした。大変な注目を集め、以後続々と個展が開催されただけでなく、伝記Uma Biografio de Haruo Ohara: Lavrador de Imagens「大原治雄伝 — 像を耕す人」が出版され、また、若手の映像作家が、その人生を、大原の写真から忠実に再現した短編映画Haruo Oharaを制作して受賞するなど、ブラジルでの評価は急激に高まりました。この現象から見えることは、大原が生きるうえで、最も大切にした「大地」や「家族」、ブラジルであれ、日本であれ、今多くの人が、知られざる巨匠・大原治雄の写真から、とても根源的な問いを突きつけられているということを感じます。

本展に際し、キーとなる文章として、使用した大原の言葉があります。

「昨日まかれた種に感謝、今日見る花を咲かせてくれた。」

農業を生業とした大原らしい言葉ですが、この「種」とは、大原の写真が象徴するもの、大原作品のエッセンスとも言えるのではないでしょうか。明日の花のために、今日種をまく —— それが生きるということなのだと。大原の写真というこの「種」が、ブラジル、日本だけでなく、今後さらに多くの国でまかれ、実りを付けて行くことを心から願ってやみません。

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写真家マルク・リブーと写真家/キュレーター/写真教育者・ネイサン・ライオンズが逝去

清里フォトアートミュージアム 学芸員・山地裕子


 

8月30日、マルク・リブー(フランス、1923-2016)が93歳で亡くなったというニュースが世界を駆け巡りましたが、本日、9月1日は、アメリカからネイサン・ライオンズが亡くなったと、悲しいニュースが入って来ました。写真家集団「マグナム」のメンバーでマグナムの黄金期を知る最後の写真家、そして20世紀フォトジャーナリストを代表する写真家のひとりであるマルク・リブーは、現在、フォトジャーナリズムのフェスティバル、仏・ペルピニャンにて展覧会「キューバ」が開催中でした。“時代の証言者”として数々のルポルタージュを発表し、多くの写真家に影響を与えたリブー。当館では、代表作のなかの一枚、1967年、ワシントンD.C.でのベトナム反戦デモで、参加者に銃口を向ける兵士の前で、一輪の花を手に佇む女性を捉えた作品を収蔵しています。

現在、展覧会「インド ー 光のもとへ」を開催中の井津建郎も、リブーのアンコール遺跡の写真集を手に取ったことをきっかけに、1993年カンボジアへ向かったのです。さらに言えば、アンコール遺跡での撮影中に地雷の被害や、治療を受けられない子どもたちの実態を目の当たりにしたことから、井津は現地に小児病院を設立し、この病院の活動が無ければ、インドにて命の尊厳を見つめる展示中の作品も生まれなかったことを考えると、一枚の写真、一冊の写真集の持つ力は計り知れないものがあります。

また、ネイサン・ライオンズは、写真家、キュレーター、写真教育者として、ニューヨーク州ロチェスター(コダック社の町)を拠点に活動していました。ロチェスターに写真教育機関Visual Studies Workshop(1969−2001)とSociety for Photographic Education を設立し、ニューヨーク近代美術館写真部長ジョン・シャーカフフキーらと国際写真キュレーター会議「オラクル」を設立しました。その他、ニューヨーク州立大学Brockport校や、Rhode Island School of Design、Corcoran School of Artなど多くの大学にて教鞭をとりました。この秋にはThe Center for Photography at WoodstockとLucie Foundation から賞を受賞する予定でした。そして、2018年にはジョージ・イーストマン・ミュージアムでの回顧展も決まっています。長年、ヒューストン美術館のキュレーターをつとめ、2003年に大規模な「日本写真史展」を開催したアン・タッカーも、ライオンズの生徒のひとりでした。

そのおおらかで暖かな人柄から、多くの写真関係者に慕われていたライオンズ。写真を見る視点、知識、感じる心、そして寛容さ・・・そのレガシーは彼と関わった人々の心の中に永遠に生き続けることでしょう。

 

1997年5月、ネイサン・ライオンズ、ジョアンご夫妻歓迎パーティにて(都内)左から細江館長、ネイサン・ライオンズ、山地学芸員、ジョアン夫人

1997年5月、ネイサン・ライオンズ、ジョアンご夫妻歓迎パーティにて(都内)左から細江館長、ネイサン・ライオンズ、山地学芸員、ジョアン夫人

左)ライオンズ、右は、故・澤本徳美先生(日本大学芸術学部写真学科教授)

左)ライオンズ、右は、故・澤本徳美先生(日本大学芸術学部写真学科教授)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左)ネイサン・ライオンズ、右)三木多聞東京都写真美術館館長(当時)

左)ネイサン・ライオンズ、右)三木多聞東京都写真美術館館長(当時)

ライオンズご夫妻歓迎パーティにて、(左)東京都写真美術館学芸員・笠原美智子氏。

ライオンズご夫妻歓迎パーティにて、(左)東京都写真美術館学芸員・笠原美智子氏。

左)ネイサン・ライオンズ、右)写真ディレクター・山岸亨子氏

左)ネイサン・ライオンズ、右)写真ディレクター・山岸亨子氏

左)PPS通信社代表取締役社長ロバート・L. カーシンバウム氏。右)ネイサン・ライオンズ

左)PPS通信社代表取締役社長ロバート・L. カーシンバウム氏。右)ネイサン・ライオンズ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ライオンズは、当館細江館長とも長年の友人でした。1964年、初めてアメリカを訪れた細江英公は、ジョージ・イーストマン・ハウスのキュレーターであったライオンズと知己を得て、1968年、「世界の偉大な写真家たち:ジョージ・イーストマン・ハウス・コレクション展」(主催:日本写真家協会)を東京他国内4カ所で開催しています。「海外の優れた作品を日本で展示したい」という細江館長の熱い思いと、それに応え、協力を惜しまなかったライオンズ。二人の間の深い理解がなければなし得なかった展覧会だったことは言うまでもありません。

1995年、KMoPAが開館し、KMoPAは、1997年にライオンズとジョアン夫人をお招きいたしました。1998年にKMoPAにて国際写真キュレーター会議「オラクル」を開催するため、そして、どのような4日間の会議を運営するべきか、ライオンズには大変なご尽力をいただきました。1998年11月に主催した「第16回オラクル」には世界各国の写真キュレーター117名が参加。参加者全員に「ヤング・ポートフォリオ」ご覧いただいたことから、YPは大きく国際化することができたのです。当時浸透し始めていたインターネットも追い風となりましたが、改めて思うことは、何よりも人と人とのつながりによって今のKMoPAのがあるということ。このことを大切に今後も活動して行きたいと思います。

マルク・リブーとネイサン・ライオンズ、二人の20世紀の偉大な写真家のご逝去にあたり、心よりご冥福をお祈りいたします。

1998年11月、KMoPAにて開催の国際写真キュレーター会議「オラクル」にて鏡開きをするライオンズ(右)、細江館長(中)、ジェームズ・エニアート氏(左)

1998年11月、KMoPAにて開催の国際写真キュレーター会議「オラクル」にて鏡開きをするライオンズ(右)、細江館長(中)、ジェームズ・エニアート氏(左)

1998年11月、KMoPAにて開催した国際写真キュレーター会議「オラクル」での青空ミーティング。ライオンズは、グループ後列で立って議論を見守っている。

1998年11月、KMoPAにて開催した国際写真キュレーター会議「オラクル」での青空ミーティング。ライオンズは、グループ後列で立って議論を見守っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

成田空港から参加者全員で新宿へ向かう車中にて。

成田空港から参加者全員で新宿へ向かう車中にて。

身曾伎神社(小淵沢町)の能舞台前で「オラクル」参加者全員の集合写真。

身曾伎神社(小淵沢町)の能舞台前で「オラクル」参加者全員の集合写真。

 

 

 

 

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「マヌエル・アルバレス・ブラボ:メキシコ、静かなる光と時」展(世田谷美術館)を見て

清里フォトアートミュージアム 学芸員・山地裕子


 

<1997年、アルバレス・ブラボ展をKMoPAにて開催>

現在、世田谷美術館にて開催中のマヌエル・アルバレス・ブラボ展。アルバレス・ブラボの展覧会はこれまで世界中で多数開催されてきましたが、同展では、作家の遺族が運営するアーカイブの協力を得て、困難だった撮影年の特定を試み、192点を時系列に展示することで、20世紀メキシコを生きた写真家の仕事の全容を見ようとするものでした。多数の展示資料と充実した図録も発行され、本当に大変な準備作業だったことと想像しますが、ラテン・アメリカの偉大な写真家の本格的な展覧会が開催されたことは、今後、日本の写真にさまざまな影響を及ぼすものと思います。

実は、マヌエル・アルバレス・ブラボの展覧会を、KMoPAでも1997年(6/21-10/26)、メキシコ大使館の協力により開催しています。KMoPAでの展覧会は、日本初の美術館における個展であり、多くの写真関係者にとって、メキシコを代表する巨匠の作品を初めて目にする機会となりました。

当館館長の細江にとっても、アルバレス・ブラボの日本での展覧会は、長年待ち望んだものでした。アルバレス・ブラボ・アーカイブでは、細江館長より「ぜひあなたの作品を見たい」と熱望する手紙が何通も見つかったとのこと。1996年、駐日メキシコ大使館文化部のエギアルテ氏から、メキシコでも“マエストロ”として知られる細江館長へ、日本への巡回の打診があった時の細江館長の興奮した様子は言うまでもありません。大使館の協力が得られるとのことで、早々に会期を設定し、国際協力基金の助成も得て、開催の運びとなったのです。

KMoPAでの展覧会は、作品数176点。メキシコ文化省が世界各地を巡回させていた回顧展で、代表作を網羅した内容となっていました。当時、マヌエル・アルバレス・ブラボは95歳。高齢のため来日出来ませんでしたが、夫人であり写真家でもあるコレット・ウルバフテルをオープニングにお迎えし、当館の開館2周年記念と併せてレセプションを行いました。

メキシコの至宝:マヌエル・アルバレス・ブラヴォ展チラシ表 1997年6月21日〜10月26日

メキシコの至宝:マヌエル・アルバレス・ブラヴォ展チラシ表面
1997年6月21日〜10月26日

チラシ裏面

チラシ裏面

当時の展示風景

展示風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オープニング・レセプションにてご挨拶されるコレット夫人。

オープニング・レセプションにて挨拶をするコレット夫人。

右から田沼武能(当時日本写真家協会会長)、夫人のコレット・アルバレス・ウルバフテル、細江館長

右から田沼武能氏(日本写真家協会会長)、コレット夫人、細江館長

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<メキシコのアルバレス・ブラボ邸を訪れて>

1996年11月、同展を終了した直後、私は国際写真キュレーター会議「オラクル」に出席するため、細江館長に同行し、メキシコを訪れました。その際、細江館長、サンディエゴ写真美術館館長のアーサー・オルマン、イスラエル美術館キュレーターのニッサン・ペレスとともに、メキシコ・シティのコヨアカン地区にあるアルバレス・ブラボ邸を訪れる機会を得ました。(*文中役職はすべて当時)

居間にて。細江館長(左)とアーサー・オルマン氏。オルマン氏の後ろの壁には、ベレニス・アボット撮影のウジェーヌ・アジェの肖像が掛けられていた。

居間にて。細江館長(左)とアーサー・オルマン氏。オルマン氏の後ろの壁には、ベレニス・アボット撮影のウジェーヌ・アジェの肖像が掛けられていた。

アルバレス・ブラボ邸入り口、大きな竜舌蘭が

アルバレス・ブラボ邸入り口。右手に大きな竜舌蘭(サボテン)。右からニッサン・ペレス、アーサー・オルマン、細江館長

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

風が気持ちよく通る居間には、中庭の見える大きなガラス窓。その奥の部屋で“ドン・マヌエル“(尊敬を込めた愛称)は、ベッドに横たわったまま、笑顔で来客を迎えてくれました。メキシコ独特のデザインの椅子が置かれた居間で、コレット夫人やアシスタントと穏やかなひとときを過ごしてから、自宅から少し歩いたところにある暗室へ案内されました。光の降り注ぐ居間での光景は、私の中で圧倒的なものとして、今も鮮やかに蘇ります。

居間の壁には、ベレニス・アボット撮影のウジェーヌ・アジェとジェームズ・ジョイスの肖像を含む数枚の写真が飾られていました。世田谷美術館での展覧会に際して来日したアルバレス・ブラボの娘で、アーカイブを管理しているアウレリア・S. アルバレス・ウルバフテルによると、ジョイスはアルバレス・ブラボの好きな作家の一人で、『ユリシーズ』も初版本の複製を含む数冊を所蔵していたそうです。そして、アジェもアルバレス・ブラボが敬愛する写真家の一人でした。別の部屋にはティナ・モドッティの“Flor de Manita”(小さな手のような形をした花の意、1925年撮影、プラチナ・プリント)と並べて、アルバレス・ブラボの1928年撮影の《アイスクリーム売り車の上の小馬》(Caballito de Carro de Helados)が飾られていたそうです。

マヌエル・アルバレス・ブラボ《アイスクリーム売り車の上の小馬》1928 Ⓒ2016 Colette Urbajtel / Archivo Manuel Álvarez Bravo., S.C., Mexico City

マヌエル・アルバレス・ブラボ《アイスクリーム売り車の上の小馬》1928、プラチナ・プリント、当館所蔵
Ⓒ2016 Colette Urbajtel / Archivo Manuel Álvarez Bravo., S.C., Mexico City

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルバレス・ブラボ邸中庭

アルバレス・ブラボ邸中庭にて(山地撮影、1997年)

 

自宅の中庭や窓は、たびたびアルバレス・ブラボの被写体となっていましたが、90歳を越えてからは特に頻繁に撮影し、シリーズ〈内なる庭〉を発表しています。窓枠にからむ光と影の一瞬の戯れも、アルバレス・ブラボの撮影によって、詩情あふれるモノクロの世界に ー その生涯を貫いた写真への思いは、まさに次の言葉に集約されています。

 

 

 

 

 

「私にとって写真とは、見る技法です。ほぼそれに尽きるといえます。見える物を撮り、絵画と違って、ほとんど改変もしない。こうした姿勢でいると、写真家には予期せぬものを、実に上手に生かせるのです。」(1970年)

(『マヌエル・アルバレス・ブラボ ー メキシコ静かなる光と時』2016、クレヴィスより)

 

<当館所蔵のアルバレス・ブラボ作品:プラチナ・プリント>

当館では、アルバレス・ブラボの作品を12点収蔵しています。《アイスクリーム売りの二輪車の上についた小さな馬》を含むプラチナ・プリントのポートフォリオ10点と、1997年の展覧会時に夫人から寄贈された作品《眼の寓話》(Parábola óptica, 1931年,プラチナ・プリント)、そして、もう1点は、写真家ロバート・ハイネケン(米、1931-2006)が所蔵していた作品で、《誘惑、アントニオの庭にて》(Tentaciones en casa de Antonio,1970)です。

ポートフォリオ(ケース)

当館所蔵のポートフォリオ(ケース)

 

プラチナ・プリントの制作については、世田谷美術館の展示室最後部での展示および図録の巻末において、写真家ジェイン・ケリーが撮影した、室作業を行うアルバレス・ブラボの写真が紹介されていますが、その時のプリントが、当館所蔵のポートフォリオです。

 

 

 

 

 

 

アルバレス・ブラボの暗室

アルバレス・ブラボの暗室(山地撮影、1997年)

 

アルバレス・ブラボは、古い写真や機材、古典技法に強い関心を持っていました。初めてプラチナ・プリント技法をアルバレス・ブラボに紹介したのは、メキシコに滞在していたティナ・モドッティで、1928年頃でした。モドッティは、既成のプラチナ印画紙のロール(断裁していないロールの状態)を持っていたのですが、モドッティの関心は、当時他の技法にあったため、アルバレス・ブラボに譲ったとのこと。そのロール紙からアルバレス・ブラボが制作した初めての作品が、自宅に掛けられていた《アイスクリーム売りの車の小馬》でした。ポジ画像よりも、むしろネガの見え方の方に惹かれ、そちらを作品化したというイメージです。その後、しばらくして、再度そのロール紙からプラチナ・プリントを制作しようとしましたが、湿気などの原因で用紙が劣化してしまい、さらに既製品も生産されなくなっていました。

 

 

それから約50年の後、再びアルバレス・ブラボのプラチナ・プリントへの興味が再燃した理由は、モドッティの没後、彼に託されたモドッティのネガを見ていて、彼女の作品は、ゼラチン・シルバーよりもプラチナ・プリントの方が適していると感じたことからでした。折しも、アメリカでは、アーヴィング・ペンなど多くの写真家が、プラチナ・プリント技法を復活させようと夢中になっていました。

アルバレス・ブラボは、ニューヨーク近代美術館写真部長のジョン・シャーカフスキーから、写真家リチャード・ベンソン(現イェール大学写真学科助教授)が作ったプラチナ・プリント技法マニュアルを譲り受け、4年間の試行錯誤の後、ようやく10枚のポートフォリオ制作にたどり着いたのです。

 

暗室にて

暗室にて(カラー引き伸ばし機)

暗室にて。細江館長(左)が動かしているのは、ヴァキュームによってネガと印画紙を密着させ、ガラス版を回転させて露光するプリント用機器。

暗室にて。細江館長(左)が動かしているのは、ヴァキューム・プリンター(ヴァキュームによってネガと印画紙を密着させ、ガラス版を回転させて露光するプリント用機器)

 

 

 

 

 

 

 

 

ヴァキューム・プリンター(密着焼きと紫外線露光用の機器)

ヴァキューム・プリンター

薬品棚

暗室内の薬品棚

 

ドライ・ルーム。左手は、大きなドライマウント用のプレス機。

ドライ・ルーム。左手は、大きなドライマウント用のプレス機。

 

 

 

 

 

 

 

 

暗室の外に置かれていた子ども用の馬の乗り物。

暗室の外に置かれていた子ども用の馬の乗り物。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歴史、政治、文学、映像、舞台、美術、工芸、デザイン、内外のさまざまな影響を受けた豊穣なメキシコ文化。歴史や偶然が生み出した美やユーモアと写真家の視点が交差し、いとも簡単に切り取られたように見える一方で、現実と非現実のあわいが、幻想的で、摩訶不思議な世界を感覚させるアルバレス・ブラボの写真。世田谷美術館での会期は、残すところあと1日。終了後は、名古屋市美術館、静岡市美術館へ巡回されます。ぜひご覧になってはいかがでしょうか。

当館所蔵のアルバレス・ブラボのプラチナ・プリント・ポートフォリオは、定期的に開催しているプラチナ・プリント収蔵作品展にて展示いたします。78歳当時の写真家が選んだ10点はどのイメージだったのか。アルバレス・ブラボは、イメージによって印画紙に使用する水彩画用紙も変え、色調も、冷たい黒や赤みのあるグレーなど、個々に調整しています。次回の展示をどうぞお楽しみに。

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