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HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第四回

自らの意思でニューヨークのファッション写真界を飛び出した、血気盛んな20代の井津建郎。30歳を目前に悩み、そして写真への畏れを見出していきます。

 

「石」と「人」を巡る冒険 井津建郎の半生

                   山岡淳一郎

<第四回>

宝石とピラミッド ― 転機の訪れ

 

井津はマンハッタンに自分のスタジオを設立した。最初の年はまったく仕事がなく、収入は800ドルだった。見込み違いも甚だしい。翌年、宝石会社のディレクターが「アンティーク・ジュエリーを撮らないか」と誘ってきた。「宝石の撮り方は知らない」と応じると、「教えるとおりにライティングをやればいいよ」と寛大に発注してくれた。

ここも大きなターニング・ポイントだった。物撮りに秀でた井津は、光モノのなかで最も難しい宝石の撮影で頭角を現す。カルティエ、ハリー・ウィンストン、ティファニーと錚々たる宝石メーカーがクライアントにつく。ワンカット=1万ドルの扉が開いた。

スタジオは軌道に乗り、営業専門のマネージャーやアシスタントを含めてスタッフは6人に増えた。大学時代の同級生、松島たちが遊びにきて「すごいな。アメリカン・ドリームだね」と讃える。しかし、内面は満たされなかった。心の声は井津にこう囁きかける。

「金を稼ぎたくてニューヨークに来たのかい。自分のアメリカン・ドリームは何だ。自分の魂そのもの、と言えるような作品をつくることじゃないのか……」

30歳の誕生日を前に井津はスタジオを一か月閉めてエジプトに飛ぶ。少年時代に本で読んだ「世界の七不思議」への素朴な好奇心からギザのピラミッドを撮りに行った。砂漠に日が落ちるのを待って、ピラミッドの真上に北極星が輝く構図で三脚を立てた。明け方までシャッターを開け放す長時間露光に挑む。ピラミッドの背景で北極星を中心に星々が円軌道を描く、前衛芸術っぽい作品を狙った。

ニューヨークに戻り、期待を込めて星空の写真を現像する。現れた画像を見て、ゾーッと背筋が凍りついた。同心円を描くはずの星が、それぞれ虫が這ったようにくねくねぐにゃぐにゃ勝手に動いているのだ。もしも三脚が物理的に動いたのなら画像は吹っ飛んでいるに違いない。ありえない現象だった。

井津本人に、そのときの衝撃と以後の遺跡撮影のモットーを語ってもらおう。

「星がうわーっと凄いスピードで動いている。超常現象なんですかね。怖くなって、ネガは捨ててしまいました。ピラミッドのなかには王族の石棺も置いてある。お墓ですね。エジプト人の友人と内部に下りたときは、異様な風が吹き上げてきた。遺跡は聖地です。祈りの場です。敬意を払わねばなりません。つまらない考えで作ろうとしてはいけないのです。あれから遺跡、聖地では作為を捨てた。正確に写しとろうと心がけています。遺跡を撮るときは、三脚を立てる前に拝みます。仏教徒なので手を合わせ、南無阿弥陀仏、お邪魔します、とね。撮り終わったら三脚の跡も残さないようきれいにしてその場所を出ます」

人間を超えた存在への敬虔な思い。井津の写真を包む静寂は、そこに根差しているのかもしれない。遺跡は、井津に「自分だけが感じる空気感覚」を撮るというテーマを与えた。遺跡には人の住む場所とは異なる気配がある。それを撮ろうと大判カメラを使う。初めは「シノゴ(4×5インチ)」を用いた。「全然ダメだ」と5×7インチ(130㎜×180㎜)に変えるが、まだ物足りない。結局、14×20インチ(355㎜×508㎜)のカメラを、シカゴのメーカーに特注で製作してもらう。プラチナ・プリントの技法も身につけた。

井津は総重量130キロのカメラ機材を担ぎ、ガイドや運転手、ポーター、料理人らとキャラバンを組んでヒマラヤやチベット、南米の遺跡をめぐった。聖地では自分だけの「空気感覚」をとらえるまで、カメラを持たずに歩き回り、ここぞというところでシャッターを切る。気が付けば美術館に井津の聖地写真が並んでいた。そして、内戦の爪痕深いカンボジアのアンコール・ワットへ撮影に行き、生き方を変えるほどの情動を抱え込んだのだった。

 

第五回につづく

 

井津建郎《アンコール#27、タ・プローム、カンボジア》1993年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《アンコール#27、タ・プローム、カンボジア》1993年
プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《アンコール#88、アンコール・ワット、カンボジア》1994年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《アンコール#88、アンコール・ワット、カンボジア》1994年
プラチナ・プリント、当館蔵

HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第五回

何かを探すためにエジプトのピラミッドへ。その撮影での人知を超えた経験により、写真への畏敬の念に目覚めた井津建郎。次の旅は―。

 

「石」と「人」を巡る冒険 井津建郎の半生

                  山岡淳一郎

<第五回>

アンコール・ワット遺跡と子どもたち

石積みの隙間から巨木の根が拡がり、アンコール・ワットの遺跡を覆っている。天から伸びた巨人の手が寺院を鷲づかみにしているようだ。この写真を井津が93年に撮ったとき、周りには子どもが群がっていた。好奇心たっぷりのまなざしを浴びていた井津は、ハッと胸がつまった。手足のない子どもが何人もいた。地雷で吹き飛ばされたのだ。子どもたちの屈託のない笑顔と、内戦のむごさがまぶたに焼き付けられた。

翌年、カンボジアを再訪した井津は、子どもの医療環境が気になってシェムリアップ州立病院に足を運んだ。ベッドに寝かされた10歳前後の少女が、お金がないばかりに治療を受けられず、目の前で息を引き取った。ニューヨークに残した一人娘と同じぐらいの歳だ。

「このままでいいのか!」。腹の底から言いようのない情動が突き上げる。

マンハッタンに戻った井津は、友人や知人に「カンボジアに子どもの病院を建てたい。手伝ってほしい」と声をかけ、「FRIENDS WITHOUT A BORDER(国境なき友人:愛称フレンズ)」を立ち上げた。

大学の同級生、松島が井津から「フレンズを日本にも」と声を掛けられたのは96年だった。出版社にカメラマンとして入った松島は、編集者に転じ、芸能界を担当した。華やかな世界で楽しく仕事をこなしたが、40代半ばを過ぎて管理部門に配置転換。お金の勘定に追われる日々に倦んでいた。二つ返事で松島は引き受ける。

とりあえず、松島の自宅にフレンズ日本の事務所を置いた。活動の最大のテーマは資金集めだ。井津は自身の写真展での売上げをフレンズに寄付した。松島がふり返る。

「夜、家で寄付金関係のデータ整理をしてカンボジアにお金を送りました。会社の管理業務で蓄えたノウハウが生きた。フレンズの事務は楽しかったな。会社ではストレスばかり溜めてたけどね(笑)。病院建設には10年かかると言われていたけど、早かったですよ」

99年、シェムリアップ州立病院の隣にフレンズが支える「アンコール小児病院」が完成する。その開院式で井津は医師や看護師を前に、こう語りかけた。

「みなさん、この病院では自分の子どもにすることはすべてやってください。自分の子どもにしないことは、絶対にやらないでください。袖の下はやめましょう。お願いします」

アンコール小児病院は、カンボジアの医療文化の変革施設として船出したのである。

第六回につづく

 

井津建郎《Druk#545、ジャンベイ寺院で祈る若い妻、ブムタン、ブータン》2007年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《Druk#545、ジャンベイ寺院で祈る若い妻、ブムタン、ブータン》2007年
プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《Druk #537、タムシン寺院近所の学校友達、ブムタン、ブータン》2007年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《Druk #537、タムシン寺院近所の学校友達、ブムタン、ブータン》2007年
プラチナ・プリント、当館蔵

HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第六回

揺るがない決意と周囲の支えにより、10年かかるといわれたアンコール小児病院の創設を4年で果たした井津建郎。難しい病院運営や人々との出会いが、写真家としての井津をさらに磨きあげていきます。連載・最終回をお楽しみください。

 

「石」と「人」を巡る冒険 井津建郎の半生

                   山岡淳一郎

<第六回>

「人」を撮るということ

井津が率いるフレンズは、カンボジア政府から土地を借りて小児病院を建てた。土地の借用期間は、当初10年だった。期限がきたら地元の人たちに運営を全面的に任せ、フレンズは一支援者に回ればいいと井津たちは考えていた。

ところが、期限が近づくと、病院のスタッフは「この先どうなるのだろう」と動揺し始めた。周辺には観光用のホテルがどんどん建っている。借地期限がきたら、土地は政府に取り上げられ、経済成長の波に呑まれて病院もホテルにされるのではないかと不安に苛まれたのだ。

井津はリーダーとして一大決心をする。ふだん物腰の穏やかな彼からは想像もできないような決断だった。カンボジアの最高権力者、フン・セン首相に借地期限の延長を直談判しようと決めた。フン・センといえば内戦時代に軍司令官として激戦に加わり、左目を失った人物である。カンボジアの友人には「気に入らない会議だと彼は拳銃を天井に向けてぶっ放すから気をつけろ」と耳打ちされた。

井津は、意を決してフン・センとのミーティングルームに入り、思わず天井を見上げた。弾痕は……、なさそうだった。やたら拳銃をぶっ放すというのは「伝説」のひとつだろう。直に接したフン・センは意外に親しみやすく、借地期間の「50年」への延長をすんなり受け入れてくれた。スタッフの動揺は収まった。

小児病院は設立から10年が過ぎ、カンボジア人の手に運営が委ねられた。フレンズはラオスに活動を広げ、そこに小児病院を設けたのだった。

フレンズの活動は井津と「人」の距離を縮めた。寄付金集めのような世事にまみれているうちに人への耐性が井津の内部で育まれた。彼の半生をトレースしてきた私にはそう思えてならない。物や遺跡にしか向けなかったレンズを、ついに人に向ける転機が訪れる。

2003年、本業の写真撮影でブータンを訪れた井津は「何と欲にとらわれない人の集合体だろう」と目を見張った。ポーターの少年が撮影の途中で「畑の収穫が始まるので帰る」と言う。「ここの報酬のほうがいいでしょう」と引き留めかけると、「いや、僕は農家の息子だから畑を大切にしたい」と告げて少年は風のように去った。

負けた、心地よく敗れた気分だった。井津はブータンで遺跡だけでなく、人を撮ってみようと思い立つ。黒人カメラマンのボスと喧嘩してスタジオを辞めてから、人は撮らなかった。ファッション写真のトラウマを背負っていたのかもしれない。その呪縛が、根雪が溶けるようにブータンで消えた。

ブータンで撮影した人たちの時空を超えた、透徹したまなざしは、最新作「永遠の光」にも受け継がれている。

ムクティ・バワンで死を待つ人たちの写真集は、終盤のどんでん返しで「赤ん坊の肖像」が現れ、悠久のガンジスに回帰して「火葬場」でしめくくられる。

生も死も、断絶と持続、絶対と相対、衆生も神々も、本質的には同一で対立は存在しない、とインドは語りかけてくる。

井津の旅は続いている。「死」を撮ることもまた、作品の終着点ではない。メビウスの輪のように表現はつながり、そこがまた起点となる。

人生は「出会い」の連続だ。

さて、次はどこへ向かうのだろう……。

-了-

 

井津建郎《インド 永遠の光 — ベナレス361#5》2014年 ゼラチン・シルバー・プリント、作家蔵

井津建郎《インド 永遠の光 — ベナレス361#5》2014年
ゼラチン・シルバー・プリント、作家蔵

井津建郎《インド 永遠の光 — ベナレス23#12》2013年  ゼラチン・シルバー・プリント、作家蔵

井津建郎《インド 永遠の光 — ベナレス23#12》2013年
ゼラチン・シルバー・プリント、作家蔵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎井津建郎 /写真家(1949-)

20歳で渡米後、100キロの大型カメラで世界の遺跡を撮影する。写真のアカデミー賞、ルーシー・アワード受賞(米、2007)。小児病院建設のため認定NPO法人フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーを創設、同USA理事、名誉会長。同団体JAPAN理事、副代表。

◎山岡淳一郎 /ノンフィクション作家(1959-)

愛媛県生まれ。「人と時代」を共通テーマに政治、近現代史、医療、建築など分野を超えて旺盛に執筆。時事番組の司会も務める。著書は『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『原発と権力』『国民皆保険が危ない』他多数。

 

この連載は、K・MoPAのニュースレターVol.7に全文掲載し、館内にて自由にお取りいただけます。無料で館内に設置いたします。ご希望の方は「井津建郎インド―光のもとへ」展の会期中にご来場ください。心よりお待ちしております。

 

<展覧会>

7月2日(土)~10月10日(月・祝)

井津建郎「インド―光のもとへ」

休館日:火曜日、7/2(土)~9/5(月)まで無休

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