NEWS Toggle

清里フォトアートミュージアム開館20周年記念展「原点を、永遠に。」を終えて⑥

清里フォトアートミュージアム 主任学芸員 山地 裕子


トーク・イベント⑤鬼海弘雄×都築響一×小川直美(進行)

 

_MG_4020

会場となった東京都写真美術館1階ロビー

8月24日(日)、東京都写真美術館にて開催の20周年記念展「原点を、永遠に。」の最終日を迎え、5回目(最終回)となるトーク・イベントを開催した。ゲストは、鬼海弘雄氏と都築響一氏。お二人には、2011年度、ご一緒に作品選考をして頂いた。トリにふさわしい、味わい深い言葉が満載のトークとなった。

_MG_6270

鬼海弘雄氏

鬼海氏は、浅草・浅草寺境内にてポートレイトを40年以上撮影しているが、実は、それ以前にさまざまな職業についている。山形県で高校卒業後、県の職員となるが20歳で退職。法政大学哲学科にて哲学者の福田定良氏と出会い、決定的な影響を受ける。やがて多くの映画を見るうちに表現者となることに興味を持つが、卒業後は、トラック運転手、造船場工員など様々な職業を転々とする。そしてダイアン・アーバスの写真集と出会い、写真による表現者を目指すことになる。

写真家への転身の決めてとなったのは?「飯が喰えなくても、人間とは何かという答えのないものを追求するしかないと思った。肖像を撮りたい。しかし写真家と表現者は簡単にくっつかないものと思っている。写真が写真を導き、「こっちへ来なさい」という言葉に導かれ、気付いたら40年。何でこんな寂しい道を裸足で歩かなくてはならないかと思いながら続けて来た。写真は、レンズとフィルムを使う愚直な表現。その愚直さが写真表現をひとりよがりにしない。それに騙されてここまで来た。」

鬼海弘雄《義足の老人》1974 ⒸHiroh Kikai

鬼海弘雄《義足の老人》1974
ⒸHiroh Kikai

鬼海氏は、25歳から写真を始め、雑誌の仕事などもやっていたが、毎回サブジェクトが変わること、有名な写真家の写真を模倣して何でも撮影していた日々を過ごすうち、自分の写真には何も写っていないと感じ、自分の立っている場所を変えようとマグロ漁船に乗ったという。その後も暗室マン、ビル・メンテナンス業、自動車工場期間工と職業を点々とする。その頃、デパートの屋上にいる人ばかりを撮ったという。昭和の象徴的な風景であり、現在消滅しかかっているデパートの屋上文化。都築響一氏のアンテナが激しく反応したが、その写真はすべて捨ててしまったそうだ。作家の“原点”を収集するヤング・ポートフォリオの視点から見れば、それこそ貴重な初期作品。お宝が失われたことは残念だ。奇しくも館長の細江英公が常日頃言う「初期作品は失われやすい性格を持つ」ことを証明している。ご本人は「別の山に登るのに前の地図はいらないでしょ?」とケロリ。そんな中で始まったのが浅草・浅草寺境内での撮影だったのだ。

_MG_6292

都築響一氏

「現在は、カメラ雑誌はあっても、写真雑誌と呼べるものが一誌もない。」と都築氏。『カメラ毎日』などの写真雑誌や『アサヒグラフ』などのグラフ雑誌への掲載など目指すものがあった時代は良かったが、現代は目指すものがないことに加え個人が個人に向かって発信できる時代に変化した。だから自分でマガジンを作っているが、幸か不幸か、現在はインターネット上で世界につながれる時代。インスタグラムだけでも、1000万単位の画像が100カ国以上、世界上でアップされている。歴史上最も多くのドキュメンタリー写真が撮影され、発表されているのだ。都築氏は、「写真が低調なのではなく、メディアの見せ方が低調なだけ。現代の主流は、世界的にみればむしろドキュメンタリーである。日本の写真家も日本のメディアもそう思っていないようだが。」と語る。

都築響一《TOKYO STYLE》1993  ⒸKyoichi Tsuzuki

都築響一《TOKYO STYLE》1993
ⒸKyoichi Tsuzuki

219219

都築氏がカメラの選択について触れた際、35ミリがしばしばシューティング(狙撃)と表現されることに対して、鬼海氏は「何と言っても写真の醍醐味は35ミリのスナップ。海外でスナップするときは、私がここに生を受けて、生きていても何の問題もないという場所でしか写真は撮らない。」と言う。さらに「私が撮った写真は100年前に死んだ人に見せても、100年後に生まれた人に見せてもOK。私は写真にユーモアの感覚を使う。35ミリであっても狙撃という感覚は使わないし、スキャンダル、風刺、快楽の感覚は使わない。」近々マドリードでの展覧会のためにスペインを訪れるが、カメラは一切持って行かないという鬼海氏。海外で撮影する時は写真集を撮る目的のみだという。

都築氏は一度、カメラ雑誌に投稿された作品の入選、落選に関わらずすべてをアーティストの大竹伸朗氏とともに見た特別な経験があるそうだ。すると、不思議な魅力を持った写真を撮る人の年齢が70、80、90代に固まっていた。それらの写真は、通常なら掲載作品として選ばれない。彼らは自分だけの美学を信じ、人のアドバイスは聞かずに50年撮っている、つまりそういう強さも大事だと指摘。現代の若い世代も、アルバイトしながら、30、40代でも自分の撮りたい写真を諦めない生き方が出来る時代。自分が強く共感できるもの、自分の舞台である発表の場を見つけるということが重要なのだ。

_MG_4022「原点を、永遠に。」展を3回ご覧くださったという鬼海氏。展示された作品を見て「写っている」と思ったと、まずは高く評価してくださった。都築氏は、「世界中で若者が同じ音楽を聞き、同じ格好をしている時代に、国民性や国ごとの性格では勝負できなくなって来ている。YPからは、多様性ではなく、むしろ同質性を感じた。同じ土壌で勝負していくのは、厳しいが面白い。」と指摘。YPについては、ミュージアム・コレクションであるということが「どんなに褒められるよりも、一枚買ってもらった方がずっと嬉しい。それで生活ができるということとは関係なく、一枚でも買ってもらうということが、何より強い評価」だと、その真骨頂をおっしゃってくださった。また、「大きな賞を取ると、かえって小さな仕事が来なくなるので、YPはカメラマンの懐にも優しい。」と、木村伊兵衛賞の受賞経験者として生々しいコメントも。

最後に、参加者から「なぜハッセルブラッドなのか?」という質問を受けた鬼海氏は、そのいきさつを話してくださった。ダイアン・アーバスの写真集を見た鬼海氏は、「一般の人が主人公の写真で、何度も繰り返し見ることができる写真集」に衝撃を受けたという。真四角の構図の中で真っ正面から人物を撮る。その話を哲学者の福田定良先生としていたら、福田先生が、「(ハッセルブラッドを)買っておいで」と30万を机の上にポンと置いてくださった。「物にはちょっとした自分のはずみがつけばいい。大げさに考えないで買っておいで」と。そのとき購入したカメラを現在も使っているという。その他数台のカメラを使うが、レンズは一本。「何本も買えないということもあるが、一本で積極的に撮る。レンズに撮らされずに自分の目で撮る。」それは簡単なことではないが、その考え方が鬼海氏の写真を作り上げたのだろう。そして、《TOKYO STYLE》で一見散らかったように見える部屋を撮った都築氏は、「こうはなりたくないと思って撮るか、カッコイイと思って撮るかで同じ写真でも違いが出る。機械が撮るものだけれど、上から目線で見るのか、どんな目線で撮るのか。誰でも写真は撮れるけれども、写真の本質はそこにある。技術では騙せない。どれだけ粘着質な視線がそこにあるのか。」

5回にわたるYP作家と選考委員によるトークを終えて、あらためて感じたことは、「写真」とは、写真家の生き方そのものであり、すべての存在がその瞬間に集中している。そして、さまざまな物事が複合されている。その複雑さを、時に読み解くアシストも必要だろう。写真家のすぐれた仕事を顕彰し、発信して行く。KMoPAは、写真と写真家のために生きている美術館として、今後もすぐれた作品を発掘し、世に問い、成長の支えとなるべく、活動を継続したいという思いを新たにした。

  • パネリスト略歴

鬼海弘雄(きかい・ひろお)1945年、山形県寒河江市に生まれる。高校卒業後、山形県職員となるが20歳で退職。法政大学哲学科在学中、哲学者の福田定良に師事し、決定的な影響を受ける。多くの映画を見るうちに表現者となることに興味を抱く。卒業後、トラック運転手、造船場工員などさまざまな仕事に就く中、ダイアン・アーバスの写真と出会う。1969年(25歳)から写真を始めるが、その後も遠洋マグロ漁業、暗室マン、ビル・メンテナンス業、自動車工場期間工などの職業に就く。同時に、東京・浅草の浅草寺境内にて独特の存在感を見いだした人々のポートレイト撮影を始める。主な作品に『王たちの肖像』『PERSONA』『India』『東京迷路』『アナトリア』などがある。

都築響一(つづき・きょういち)1956年、東京都に生まれる。76年から10年間、雑誌『POPEYE』『BRUTUS』にて編集者を務める。以後、現代美術、建築、写真、デザインなどの分野で執筆活動、書籍編集を続けている。93年、東京人のリアルな暮らしを捉えた『TOKYO STYLE』を刊行。それまであまり被写体とならなかった生活感あふれる居住空間を発表して大きな話題となる。96年、日本各地に点在する秘宝館や奇妙な新興名所を撮影した『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』で第23回木村伊兵衛賞受賞。主な著書に『STREET DESIGN FILE』(全20巻)『珍世界紀行ヨーロッパ編 ROADSIDE EUROPE』『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』など多数。現在、個人雑誌有料メールマガジン「ROADSIDERS’ weekly」を発行中。

http://www.roadsiders.com

東京工芸大学にて特別授業

清里フォトアートミュージアム 主任学芸員 山地 裕子


12月10日(水)、東京工芸大学助教、勝倉崚太先生(YP作家)より特別授業を依頼され、90分間のレクチャーを行ってまいりました。特別授業は、写真に関する業界から(編集者、デザイナー、印刷など)講師を招き、学生の将来の方向を考える参考にしてもらおうというもの。以前は4年生の授業だったが、現在は3年生が対象となっているそうです。

スライドでは、KMoPAの基本理念のひとつ、プラチナ・プリントのコレクションについて。その技法、特徴、作品をご紹介。その後、ヤング・ポートフォリオを重点的にご紹介しました。ヤング・ポートフォリオとは?を説明するにあたって、ご自身がYP作家でもある勝倉先生から事前にあった一言は、「通常、コンテストでは既発表に関する制約がある場合が多く、ヤング・ポートフォリオも同様と思い込んでいる学生が多い。ヤング・ポートフォリオは、既発表作品も既に受賞した作品も応募できるので、このことだけは覚えておいて欲しい。」とのこと。先生が、授業でさらに強調された点は、「自分の、作品がお金を払ってもらって、美術館に収蔵されることは非常に大きいこと」「略歴にコレクションという実績を記載できる」ということ。

開館20周年記念展「原点を、永遠に。」のポスターパンフレットを差し上げ、スライドでもご紹介。3年生ということもあって、「自分にはまだまだ先のこと」という印象もあるかと思い、まずは、野口里佳が在学中に応募した《座標感覚》(1992)からスタート。さらに、ヤング・ポートフォリオの特徴である「35歳まで継続して応募・収蔵ができる」点。安村崇、石塚元太良、北野謙など継続して収蔵した作家の変化をスライドショーで紹介。林典子、髙木忠智、亀山亮などドキュメンタリーの作家たちもYPでの購入が次の取材費になるなど、プロジェクトを次につなげていくきっかけとしてYPに応募するなど、多くの写真家がYPを通して大きく成長して行ったことをご紹介しました。

最後に勝倉先生から「作品がコレクションされれば、自分のように東京都写真美術館で展示されたり、他へ巡回されたりする機会もある」と再度おっしゃってくださり、タイムアップ。スライドの後半、海外作品は駆け足となってしまいましたが、東京工芸大学からはこれまで数多くのYP作家が出ています。2013年度は、当時東京工芸大学院芸術学研究科在学中だった廣田千祐貴、2014年度は同研究科に在学中の三善チヒロ。それから、あまり知られていないのですが、これまでのYP作家の最年少は15歳。中学・高校生も応募できるのです。もちろん東京工芸大学に限らず、学生さんからのチャレンジをお待ちしています!全国の卒業制作真っ最中のみなさま、渾身の力で作った作品を学内だけで見せるのはもったいない。ぜひ来年4月のご応募をお待ちしています。

東京工芸大学写真学科HP

http://www.t-kougei.ac.jp/arts/photography/

清里フォトアートミュージアム開館20周年記念展「原点を、永遠に。」を終えて⑤

清里フォトアートミュージアム 主任学芸員 山地 裕子


トーク・イベント④熊谷聖司×下薗詠子×有元伸也×瀬戸正人(進行)

 

_MG_6248

左/熊谷聖司氏、右/瀬戸正人氏

8月23日(土)午後2時から、4回目となる「原点を、永遠に。」展記念トーク・イベントを東京都写真美術館1階ロビーにて行った。活発に制作・発表している若い写真家たちの生の声に耳を傾けようと会場は満席となった。全くタイプの違う作家たちからどのような和音が生まれるのか、会場の空気も真剣なものだった。

YP96025-02

熊谷聖司《もりとでじゃねいろ》1994 ⒸSeiji Kumagai

進行の瀬戸正人氏は、まず写真家となったきっかけからトークを始めた。映画を学びたかった熊谷氏、アンディ・ウォーホルの画集を見てシルクスクリーンを学びたかった下薗氏など、きっかけはさまざまだが、実家が写真館だった瀬戸氏は、写真を学ぶために上京し、森山大道氏に出会った。まるでウィルスに感染したかのように人生を変えてしまったその出会いを、瀬戸氏は“M型ウィルス”(森山氏のM)と呼び、自身もS型ウィルスを広めるべくワークショップを行っているという話が、会場の緊張をほぐして行った。

瀬戸氏自身がM型に感染したということから、3人の写真家にそれぞれに与えた影響を尋ねると、熊谷氏は森山大道氏の「光と影」ウィリアム・クラインの「ニューヨーク」。下薗氏はリチャード・アベドンとダイアン・アーバス。有元氏は60年代アメリカの写真と内藤正敏氏の「東京」をあげた。なかでも「東京」をファッション本と思い込んで開いた有元氏は、内藤氏が捉えた東京の闇の世界に大きな影響を受けたという。

_MG_6256

有元伸也氏

U4222_DSC1693

有元伸也《TIBETAN WAY》1998 ⒸShinya Arimoto

2013年度、2014年度と2年間ヤング・ポートフォリオの作品選考をされた瀬戸氏は、その特徴として、「今は無名な作家たちのいずれ“原点”となる作品を選ぶ」難しさ、「お金を払って買い上げる」難しさ、そして「3人の選考委員全員が合意しなければ選ばれない点」をあげた。「1人だけ、2人だけでなく、3人が良いと思った作品には、やはりそれなりの力と良さがある。そして、10年後も作品の力がキープされている。」と言う。

YP98065-02

下薗詠子《同世代》1998 ⒸEiko Shimozono

_MG_6243

下薗詠子氏

一方、永遠のテーマである「写真家はどうやって食べているのか?」に話が及ぶと、さらに会場はほぐれていく。有元氏「お金がなくても毎日楽しく生きられるのも才能。カメラ、フィルム、印画紙、現像液があれば幸せ。」とはいえ、究極の問題解決法とは?「食べないこと。」と瀬戸氏。「前に食べたのがいつだったかわからない身体になっている。写真家に太った人はいないし、太った写真家は信用しない方がいい。」と新説を発表。

食べる食べないはさておき、写真家として最も難しいのは、ひとつのテーマが決着した時に次をどう展開するか、そのジャンプ力が問われることだと瀬戸氏は指摘。熊谷氏は、さまざまなシリーズを長いスパンで同時進行させ、常に発表したい本が20ぐらいあるそうだ。一区切りついたら、のんびりしながらインスピレーションが下りてくるのを待つという下薗氏。そのような状態で森山大道氏のカラー作品を見た際に“ピカーン”となり、現在進行中の「あふるる」を始めるきっかけとなった。常に人に作品を見せることが自分を後押ししてくれると言う有元氏も、全員に共通するのが「人に見せてこそ写真」だという点だ。

_MG_6245

瀬戸正人氏

最後に瀬戸氏がパネリストに投げかけた質問は「自分にとって良い写真とは?」熊谷氏は、「見た人が後から反映する何かを感じられるものとして(写真が)存在しているのが一番良い。見た人の記憶に残って、ずっと揺れのようなものが残る写真」有元氏は「撮り手が相手を見ている、目が合う写真。下薗さんが19歳の時の写真もすごかった。」とコメント。

誰でも、何でも撮れる時代だが、良い写真とは、写った画像よりも、撮影者の目線が感じられる写真、見る人に何かが響いてくる写真だ。だから写真家は、自分が本当に何を見せたいのか煮詰めて行くしかない。これからヤング・ポートフォリオに応募をしようとする若者に向けた強いメッセージでトークは終了した。

  • パネリスト略歴

熊谷聖司(くまがい・せいじ)1966年北海道に生まれる。1997年、日本工学院専門学校卒業後、海老名享氏に師事し、独立。1994年《もりとでじゃねいろ》にてキヤノン写真新世紀年間グランプリを獲得。個展に「ダイナマイト・パンチ・エキサイティング」(1997)「最初の音」(1997)「人と人の事」(1998)「BIBLE」(2001年)「春ニ還ル」(2003)など。写真集に『あかるいほうへ』『神/うまれたときにみた』『EACH LITTLE THING』など多数。最新の写真集に『MY HOUSE』、最近作に「はるいろは かすみのなかへ」がある。

http://www.kumagaiseiji.com

有元伸也(ありもと・しんや)1971年大阪府に生まれる。1994年、ビジュアルアーツ専門学校大阪卒業。ガーディアン・ガーデンの公募展「人間の街」に《我国より肖像》が入選し、初個展を開催。1997年「チベットより肖像」を発表し、1998年第35回太陽賞を受賞。2008年、自主運営ギャラリーTotem Pole Photo Gallery (TPPG)を四谷4丁目に設立。8名で運営している。2010年より自費出版による写真集ariphotoを始め、年一回発刊している。2000年より東京ビジュアルアーツ講師をつとめ、教え子からヤング・ポートフォリオ作家が生まれている。http://arimotoshinya.com

下薗詠子(しもぞの・えいこ)1979年鹿児島県に生まれる。1999年、九州ビジュアルアーツ写真学科卒業。2001年、「現の燈」(うつつのあかし)をコニカフォトプレミオ/新しい写真家登場にて初めて発表する。2010年「きずな」にてビジュアルアーツフォトアワード大賞を受賞し、同年第36回木村伊兵衛賞を受賞。19歳より雑誌を中心に音楽CDジャケット、俳優、アーティスト、オリンピック選手など国内外で数多く撮影。現在はシリーズ「あふるる」を手がける。鹿児島県在住。http://shimozono115.wix.com/homepage

瀬戸正人(せと・まさと)1953年タイに生まれる。8歳で父親の故郷・福島県に移住。実家は写真館を経営。1973年、東京ビジュアルアーツ卒業。在学中より森山大道氏に大きな影響を受ける。森山氏の紹介で岡田正洋写真事務所に勤務し、そこで写真家・深瀬昌久氏と出会い、助手となる。1981年独立。1987年、山内道夫氏と自らの発表の場ギャラリーPLACE Mを開設、現在も運営している。1996年「Silent Mode」「Living Room, Tokyo」が評価され、木村伊兵衛賞を受賞。2010年からは同賞の審査員をつとめている。2012年度、2013年度YP選考委員。最新作に震災後に福島県に降り注いだ放射能物質セシウムを写真にとらえようと試みる「Cesium/Cs-137」がある。http://www.setos.jp

ShutDown