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Curator’s Choice #7

K・MoPA開館20周年記念「未来への遺産:写真報道の理念に捧ぐ」展について②

清里フォトアートミュージアム 主任学芸員 山地 裕子

前回ご紹介したように「未来への遺産:写真報道の理念に捧ぐ」展のベースとなった展覧会は、半世紀前にコーネル・キャパがニューヨークで企画・構成した“The Concerned Photographer”展だった。原題のconcernという言葉の和訳は、一言で表現するのが難しいが、関心、懸念といった意味を持っている。政治家などがI am deeply concernedと言う場合は、何かについて懸念がある、または憂慮しているという意味になる。The Concerned Photographerを訳すと、社会を憂う写真家、思いやりのある写真家などとなるが、さらに正確に言おうとすれば「世の中に関心を持ち、その状況について改善の必要があると感じている写真家」ということになるだろう。つまり日本語では一言に収まらないのが唯一の難点だが、キーワードとなる言葉なので、ここでは「コンサーンド・フォトグラファー」と、そのまま使用させていただきたい。

銀座・松屋内展覧会場でのアンドレ・ケルテス(右)とコーネル・キャパ(左)、1968年      ⒸHiroji Kubota / Magnum Photos

銀座・松屋内展覧会場でのアンドレ・ケルテス(右)とコーネル・キャパ(左)、1968年     
ⒸHiroji Kubota / Magnum Photos

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<コンサーンド・フォトグラファーの誕生>

写真家コーネル・キャパが、この展覧会を開催したことが、なぜフォトジャーナリズムの新たな活躍の扉をこじ開けたこととなったのか、その理由は、当時未だ報道写真の主な発表媒体が雑誌に限定されていたことにある。イニシアチブはあくまでも編集者にあり、編集方針に従って写真家は取材に向かい、撮影して来た写真は編集者の判断に拠ってトリミングされるなど、写真はいわば編集材料として使われていた。しかし、「コンサーンド・フォトグラファー」たちは、撮影に関して、自分たちが積極的に関心を持ち、必要な時間をかけ、自身の主張を写真によって明らかにしようとする写真家だった。その思いを共有していた兄ロバート・キャパをはじめ、デイヴィッド・シーモア、ワーナー・ビショフらが、1950年代、取材中の事故で相次いで亡くなった。彼らが残した写真の行く末はどうなるのか。写真が失われれば、人々の記憶からも永遠に消え去られてしまうのか。

強い危惧を抱いたコーネル・キャパは、ビショフ未亡人、シーモアの妹とともに、3人の写真家の記念基金を作り、写真集を出版し、若いフォトジャーナリストに賞を出したが、それでも足りないという思いが次第に募っていった。そして、1967年、本展覧会のベースとなった6人の写真家による”The Concerned Photographer”展を企画し、ニューヨークを皮切りに欧米各地を巡回させた。すると、展覧会は、多くの観客を動員し、図録も売れる という快挙を成し遂げた。これらの写真が、印刷物に限らず、ギャラリーの壁に展示する作品としても高い評価を得られたことが、コーネル・キャパの写真美術館設立の確信に繋がって行ったのである。

(つづく)

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