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HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第三回

医者になる夢が頓挫、写真で身を立てることを決意した青年・井津は、大学を休学し、わずかなお金を手にアメリカへ ―。第三回では、写真家・井津建郎の人生が、大きく動き出します。

 

「石」と「人」を巡る冒険 井津建郎の半生

山岡淳一郎

<第三回>

ニューヨーク―皿洗いから広告写真の世界へ

 

1970年の秋、羽田を発ってロサンゼルスに降りた井津は、グレイハウンドのバスに乗り換え、3泊4日かけて大陸を横断する。ニューヨークにたどり着いたときには、ポケットの残金はわずか85ドル(=30600円)だった。

翌日から職を探して「華厳」という日本食レストランにもぐり込む。明るい人柄が気に入られ、皿洗いからウェイター、コックと順調に昇進した。たちまちチップを含めて週に200ドル稼ぐようになる。

写真家の奈良原一高がニューヨークにいると知った井津は、電話帳で調べて会いに行く。初対面の奈良原は、快く知人を紹介してくれた。そこから人脈が広がり、日本人カメラマンのアシスタントに就く。3か月働いた「華厳」を辞めると給料は4分の1に減ったが、スタジオで英語も本格的に学べた。日本への未練は、母への後ろめたさも含めて、消した。

次のボスは、黒人のファッションカメラマンだった。ボスの写真は有名なファッション誌の表紙を飾った。スタジオは大きく、女優やモデルを撮る場所の他に物撮り(商品の撮影)用の小さなスタジオも幾つもあった。

アシスタント生活が3年に及んだある日、ボスは井津に「いい話」を持ちかけてきた。

「ケンロウ、俺のアソシエイト(仲間)にならないか。おまえの物撮りの腕は、うちのスタジオでピカイチだ。俺が女優を撮って、おまえが化粧品を撮れば最高の組み合わせだ。カメラマンになれば給料も上がる。取り分をパーセンテージで決めようじゃないか。こんなにいい話はないだろう」。

どんなアシスタントでも飛びつきそうなオイシイ話である。

だが……、井津は首を横に振った。唖然とするボスを見すえて、きっぱりと言った。

「正直言って、こんな写真は好きじゃないし、ぼくには向いていない。あんたの写真には学ぶところはない」。大音量でポップスを流し、モデルに「セクシー」を連発しながら撮る写真が、井津には軽薄に感じられて仕方なかった。人を撮るのはもうこりごりだ。

「さっさと出ていけ!」。ボスは目を血走らせて怒鳴った。

スタジオを飛び出ると、タイムズスクエアのネオンがにじみ、目にしみた。

 

第四回につづく

井津建郎《ラダック#67、スピトク・ゴンパ仏具、インド》1999年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラダック#67、スピトク・ゴンパ仏具、インド》1999年
プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラダック#43、ラマユル・ゴンパ仏具、インド》1999年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラダック#43、ラマユル・ゴンパ仏具、インド》1999年
プラチナ・プリント、当館蔵

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