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写真家マルク・リブーと写真家/キュレーター/写真教育者・ネイサン・ライオンズが逝去

清里フォトアートミュージアム 学芸員・山地裕子


8月30日、マルク・リブー(フランス、1923-2016)が93歳で亡くなったというニュースが世界を駆け巡りましたが、本日、9月1日は、アメリカからネイサン・ライオンズが亡くなったと、悲しいニュースが入って来ました。写真家集団「マグナム」のメンバーでマグナムの黄金期を知る最後の写真家、そして20世紀フォトジャーナリストを代表する写真家のひとりであるマルク・リブーは、現在、フォトジャーナリズムのフェスティバル、仏・ペルピニャンにて展覧会「キューバ」が開催中でした。“時代の証言者”として数々のルポルタージュを発表し、多くの写真家に影響を与えたリブー。当館では、代表作のなかの一枚、1967年、ワシントンD.C.でのベトナム反戦デモで、参加者に銃口を向ける兵士の前で、一輪の花を手に佇む女性を捉えた作品を収蔵しています。 現在、展覧会「インド ー 光のもとへ」を開催中の井津建郎も、リブーのアンコール遺跡の写真集を手に取ったことをきっかけに、1993年カンボジアへ向かったのです。さらに言えば、アンコール遺跡での撮影中に地雷の被害や、治療を受けられない子どもたちの実態を目の当たりにしたことから、井津は現地に小児病院を設立し、この病院の活動が無ければ、インドにて命の尊厳を見つめる展示中の作品も生まれなかったことを考えると、一枚の写真、一冊の写真集の持つ力は計り知れないものがあります。 また、ネイサン・ライオンズは、写真家、キュレーター、写真教育者として、ニューヨーク州ロチェスター(コダック社の町)を拠点に活動していました。ロチェスターに写真教育機関Visual Studies Workshop(1969?2001)とSociety for Photographic Education を設立し、ニューヨーク近代美術館写真部長ジョン・シャーカフフキーらと国際写真キュレーター会議「オラクル」を設立しました。その他、ニューヨーク州立大学Brockport校や、Rhode Island School of Design、Corcoran School of Artなど多くの大学にて教鞭をとりました。この秋にはThe Center for Photography at WoodstockとLucie Foundation から賞を受賞する予定でした。そして、2018年にはジョージ・イーストマン・ミュージアムでの回顧展も決まっています。長年、ヒューストン美術館のキュレーターをつとめ、2003年に大規模な「日本写真史展」を開催したアン・タッカーも、ライオンズの生徒のひとりでした。 そのおおらかで暖かな人柄から、多くの写真関係者に慕われていたライオンズ。写真を見る視点、知識、感じる心、そして寛容さ・・・そのレガシーは彼と関わった人々の心の中に永遠に生き続けることでしょう。

1997年5月、ネイサン・ライオンズ、ジョアンご夫妻歓迎パーティにて(都内)左から細江館長、ネイサン・ライオンズ、山地学芸員、ジョアン夫人

1997年5月、ネイサン・ライオンズ、ジョアンご夫妻歓迎パーティにて(都内)左から細江館長、ネイサン・ライオンズ、山地学芸員、ジョアン夫人

左)ライオンズ、右は、故・澤本徳美先生(日本大学芸術学部写真学科教授)

左)ライオンズ、右は、故・澤本徳美先生(日本大学芸術学部写真学科教授)

 

左)ネイサン・ライオンズ、右)三木多聞東京都写真美術館館長(当時)

左)ネイサン・ライオンズ、右)三木多聞東京都写真美術館館長(当時)

ライオンズご夫妻歓迎パーティにて、(左)東京都写真美術館学芸員・笠原美智子氏。

ライオンズご夫妻歓迎パーティにて、(左)東京都写真美術館学芸員・笠原美智子氏。

左)ネイサン・ライオンズ、右)写真ディレクター・山岸亨子氏

左)ネイサン・ライオンズ、右)写真ディレクター・山岸亨子氏

左)PPS通信社代表取締役社長ロバート・L. カーシンバウム氏。右)ネイサン・ライオンズ

左)PPS通信社代表取締役社長ロバート・L.? カーシンバウム氏。右)ネイサン・ライオンズ

ライオンズは、当館細江館長とも長年の友人でした。 1964年、初めてアメリカを訪れた細江英公は、ジョージ・イーストマン・ハウスのキュレーターであったライオンズと知己を得て、1968年、「世界の偉大な写真家たち:ジョージ・イーストマン・ハウス・コレクション展」(主催:日本写真家協会)を東京他国内4カ所で開催しています。「海外の優れた作品を日本で展示したい」という細江館長の熱い思いと、それに応え、協力を惜しまなかったライオンズ。二人の間の深い理解がなければなし得なかった展覧会だったことは言うまでもありません。 1995年、KMoPAが開館し、KMoPAは、1997年にライオンズとジョアン夫人をお招きいたしました。1998年にKMoPAにて国際写真キュレーター会議「オラクル」を開催するため、そして、どのような4日間の会議を運営するべきか、ライオンズには大変なご尽力をいただきました。1998年11月に主催した「第16回オラクル」には世界各国の写真キュレーター117名が参加。参加者全員に「ヤング・ポートフォリオ」ご覧いただいたことから、YPは大きく国際化することができたのです。当時浸透し始めていたインターネットも追い風となりましたが、改めて思うことは、何よりも人と人とのつながりによって今のKMoPAのがあるということ。このことを大切に今後も活動して行きたいと思います。 マルク・リブーとネイサン・ライオンズ、二人の20世紀の偉大な写真家のご逝去にあたり、心よりご冥福をお祈りいたします。

1998年11月、KMoPAにて開催の国際写真キュレーター会議「オラクル」にて鏡開きをするライオンズ(右)、細江館長(中)、ジェームズ・エニアート氏(左)

1998年11月、KMoPAにて開催の国際写真キュレーター会議「オラクル」にて鏡開きをするライオンズ(右)、細江館長(中)、ジェームズ・エニアート氏(左)

1998年11月、KMoPAにて開催した国際写真キュレーター会議「オラクル」での青空ミーティング。ライオンズは、グループ後列で立って議論を見守っている。

1998年11月、KMoPAにて開催した国際写真キュレーター会議「オラクル」での青空ミーティング。ライオンズは、グループ後列で立って議論を見守っている。

 

成田空港から参加者全員で新宿へ向かう車中にて。

成田空港から参加者全員で新宿へ向かう車中にて。

身曾伎神社(小淵沢町)の能舞台前で「オラクル」参加者全員の集合写真。 身曾伎神社(小淵沢町)の能舞台前で「オラクル」参加者全員の集合写真。

Curator’s Choice #8

K・MoPA開館20周年記念「未来への遺産:写真報道の理念に捧ぐ」展について③ 清里フォトアートミュージアム 主任学芸員 山地 裕子

<コンサーンド・フォトグラファーと写真家・久保田博二>

1967年9月30日付ニューヨークタイムズの35面中程に、ニューヨークのリバーサイド・ミュージアムにて開催される「コンサーンド・フォトグラファー」展の記事が掲載されている。

ニューヨークタイムズ 1967年9月30日、35面

ニューヨークタイムズ
1967年9月30日、35面

上段の記事は、ミッチェル・ホールというニューヨーク・ハーレムに住む少年のストーリーで、その写真を撮影したのが、現在のマグナム・フォト東京支社代表の写真家・久保田博二である。久保田は当時28歳。早稲田大学政経学部卒業後、写真家を志して渡米し、シカゴ・ニューヨークに6年間滞在していた時である。紙面に同時に掲載されたことは、全くの偶然ではあったが、久保田と「コンサーンド・フォトグラファー」展との深い関係にも触れておきたい。 ? 久保田が、写真家を目指したきっかけとなったのは、1961年、マグナム・フォトの写真家・エリオット・アーウィット、ルネ・ブリ、バート・グリンらが来日した際に遡る。久保田は、彼らの取材にアシスタントとして同行し、通訳兼ドライバーをつとめた。 後に帰国したアーウィットから、お礼に贈られたアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集『決定的瞬間』に魅せられ、また彼らの颯爽とした取材ぶりに憧れ、写真家を目指したのである。一般の国民は未だ海外渡航も自由に出来なかった時代に、(1964年自由化)アーウィットが保証人となって、久保田は、大学卒業と同時に渡米した。ニューヨークに着くとすぐに、アーウィットの勧めでコーネル・キャパの元へ挨拶に向かう。以来、コーネル夫婦は、本当の息子のように久保田の面倒を見、人脈作りをはじめ、経済的にも支えたが、そのことを声高に言うことは決して無かったという。

<「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」>

1967年、久保田は、6年間のアメリカ滞在から日本へ帰国する。コーネルは日本での「コンサーンド・フォトグラファー」展の開催を希望し、久保田にいっさいを任せた。展覧会の日本語タイトル「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」と題し、主催・毎日新聞社の冠のもと、スポンサーを探し、松屋銀座内の会場を手配し、図録のために写真家・濱谷浩氏へ寄稿を依頼。オープニングには、高松宮妃殿下をお迎えするアンドレ・ケルテス、コーネル・キャパ夫妻、濱谷浩夫妻らの写真が残されている。

1968年「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」と題され、高松宮妃殿下をお迎えして行われた松屋銀座でのオープニング風景。 写真右から3人目、高松宮妃喜久子妃殿下、アンドレ・ケルテス、コーネル・キャパ夫妻、エンサイクロペディア・ブリタニカ日本支社長フランク・ギブニー、写真家・濱谷浩夫妻 ?Estate of Andre Kertesz, New York, 2015

1968年「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」と題され、高松宮妃殿下をお迎えして行われた松屋銀座でのオープニング風景。
写真右から3人目、高松宮妃喜久子妃殿下、アンドレ・ケルテス、コーネル・キャパ夫妻、エンサイクロペディア・ブリタニカ日本支社長フランク・ギブニー、写真家・濱谷浩夫妻
ⒸEstate of Andre Kertesz, New York, 2015

 

高松宮妃殿下に作品について語るアンドレ・ケルテス ?Estate of Andre Kertesz, New York, 2015

高松宮妃殿下に作品について語るアンドレ・ケルテス
ⒸEstate of Andre Kertesz, New York, 2015

驚くべきことは、この展覧会でプリントを販売したところ、ケルテスの作品がほぼすべて売れ、4,500ドルもの収益が出たと言うことだ。1968年当時の写真の売買がどのような状況だったかと言えば、アメリカで初めての写真ギャラリー(Witkin Gallery)が誕生したのが1969年。活発化するのは、米国内でさえ1970年代半ばまで待たなければならない。その状況で、ケルテスのプリントが日本で多数売れたという事実と、日本のコレクターの見識に驚かされる。 ケルテスの研究者・ロバート・グルボ氏によると、当時ケルテスは既に世界的な巨匠との名声を得ていたが、同時に“過去の人”という印象もあったことは本人も認識していたという。しかし、日本で作品が売れ、そして、岩波書店からハードカバーの大判写真集が出版されたことを非常に喜び、ケルテスは、日本によって再び写真家としてのエネルギーを取り戻したとグルボ氏は言う。重要な転機となったのが日本であり、ケルテスの初期作品を多く含んだ「コンサーンド」展でもあったのだ。また、3週間の日本滞在中、行動を共にしていたケルテスと久保田は意気投合。「(ケルテスと)写真の話はほとんどしなかった。」と言うが、生涯の親交を得ている。 「コンサーンド」展の終了後、コーネルは、久保田に「(展覧会の収益から)何か欲しいものはないか?」と尋ね、世界一周できるチケット(約1,000ドル)を手にする。これによって、ヨーロッパ、トルコ、レバノン、ヨルダン、サイプレス、インド、ミャンマー、香港を旅し、撮影した。この世界一周の旅は20代の写真家にとって魂を揺さぶられる経験であり、「1963年にワシントンD.C.で見たキング牧師の演説と大行進。そして、この世界一周の経験がなければ、今の自分は無い。」と断言する。「コンサーンド」展は、日本を代表する写真家をも生み出していたのである。 ? <世代から世代へ> ケルテスは、1930年代のパリで、若く才能あるロバート・キャパを支援し、久保田を励ました。コーネルもまた、久保田を支えた。優れた写真家が、若手の才能を見出し、献身的に支えるという“伝統”は、確かに息づいている。フォト・ジャーナリストという仕事が、写真家が単独で成し遂げられる性格のものではないこと、また、とてつもなく大きな物事に立ち向かっているという共通の認識も、おそらくその伝統を強固なものにしているのだろう。 「コンサーンド」展に、最年少で選ばれたレナード・フリードの作品は、展覧会を開催した1967年に撮影したばかりの作品も多く含まれ、才気あふれる若手写真家フリードの爆発的なエネルギーをこの展覧会に組み込むことによって、この伝統を次世代につなげていこうとしたコーネルの強い意志が伝わってくる。 以前に触れたように「コンサーン」(concern)という言葉の意味は、関心を持つこと、働きかけること、繋いでいくこと。「コンサーンド」展がもたらしたものは、社会と深い関わりを持つ写真家にはどのような仕事ができるのか、写真にはどんな力があるのか、写真と写真家の役割についての、それまで以上に強い“意識”ではないだろうか。 戦争の世紀と言われた20世紀。職業写真家たちは戦争へ向かい、人間が引き起こす様々な不条理に立ち向かった。しかし、この展覧会の6人の写真家が捉えたものは、センセーショナルな出来事だけではない。彼らの眼差しが、広く世界に向けて開かれ、土地土地に生きる人々の、日常の営みの中にこそ見える人間性をも等価に捉えていることを、本展はその構成によって示している。激しく社会が変化した世紀の中において、6人が目指したものは、人間が生きることの真価を力強く表現することであり、これらのプリントが、写真集の印刷に使用された後に、処分も散逸もせずに遺っていたことは運命とも思えてならない。人類が、20世紀と今後も向き合っていくなかで、再び世に出るタイミングが、いつかあるはず、と。私たちは、この写真群が、今後50年後も、100年後も変わらず、見る人の心に届き、記憶の中心に留められ、“遺産”として受け継がれていくことを切に願っている。

Curator’s Choice #6

K・MoPA開館20周年記念「未来への遺産:写真報道の理念に捧ぐ」展について① 清里フォトアートミュージアム 主任学芸員 山地 裕子

明日より開催の「未来への遺産:写真報道の理念に捧ぐ」展は、1967年、ニューヨークのリバーサイド美術館にて行われた展覧会“The Concerned Photographer”がベースとなっている。同展は、ロバート・キャパ実弟のコーネル・キャパが、アンドレ・ケルテス、デイヴィッド・シーモア、ロバート・キャパ、ワーナー・ビショフ、ダン・ワイナー、レナード・フリード、6人の作品によって構成したもので、1968年に同名の写真集が出版されている。後のニューヨークの国際写真センター(International Center of Photography、以下ICP)の設立とも深い関わりを持つ展覧会だ。

リバーサイド美術館での展示風景、1967年 ?Estate of Andre Kertesz, New York, 2015

リバーサイド美術館での展示風景、1967年
?Estate of Andre Kertesz, New York, 2015

現在、65歳以上の方は、この展覧会が日本で、1968年に「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」と題され、銀座の松屋にて開催されたことをご存知、さらには実際にご覧になったという方もいらっしゃるのではないだろうか。 当時、コーネル・キャパの命を受け、東京での展覧会をコーディネートしたのは、写真家・久保田博二氏であったが、このことは次回に触れたい。

<プリントはオランダで発見された> 本展の展示作品は、2点を除いて全て当館の収蔵作品で、写真集“The Concerned Photographer”の印刷原稿となったプリントだ。そのいきさつをご紹介しよう。

写真集"The Concerned Photographer" 表紙 (Grossman Publishers, New York, 1968)

写真集”The Concerned Photographer” 表紙 (Grossman Publishers, New York, 1968)

1997年、海外のディーラーからK・MoPAに連絡が入った。「The Concerned Photographerの写真集に印刷原稿として使用されたプリントが、まとまった形で見つかった。」という。早速細江館長とともにその詳細を調査した。カタログに収録された作品は全174点で、残念ながら13枚は紛失していたが、161枚が揃っていた。多少の折れなどはあるものの、コンディションは良好。 同写真集が印刷された当時は、原稿となるプリント(写真原稿)を、印刷後に写真家に返却するということが厳密に行われてはおらず、また、プリントそのものがコレクションの対象として売買されるという市場感覚も未だ確立されていなかった時代である。本来なら印刷後すみやかに著作権者の手元に戻るべきプリントが、印刷会社に残ったまま30年が経過し、モノとしての所有権が移ってしまったのである。 カタログの発行者は、ニューヨークの出版社グロスマン(Grossman)で、印刷は、オランダ・ライデンのNed. Rotogravure Mij.N.V.によるグラビア印刷である。グラビア印刷とは、写真の階調を力強く再現する印刷方式で1950?60年代はまさにその全盛期だった。セルと呼ばれる小さい凹型のくぼみをシリンダーに刻み込み、そこにインクを入れて転写する。印象としては、現在のオフセット印刷に比べるとコントラストが高くなってしまうため、暗部の細かいディテール表現は少々劣るものの、ドラマチックな印象と、こっくりとした暖かみのある風合いを感じることができる。この時代には、グラビア印刷によって、濱谷浩の『裏日本』など多くの名作が生まれている。

<収蔵までのプロセス> 収蔵を検討するにあたり、これら6人の写真家の代表作が数多く含まれているこのコレクションが、非常に魅力的であることは疑う余地がなく、収集委員会でも満場一致で承認された。しかし、プリントの所有権について、モノとしての所有権と、著作権の所有権という二つの点において、慎重に整理する必要があった。当時ICPの名誉館長はコーネル・キャパであり、存命だったことも大変幸運だった。ICPの法務担当が仲介を務め、弁護士とも相談しながら、すべての写真家の遺族や著作権者(エステート)全員と交渉し、収蔵や展示に関わる条件がまとまった。そして、ICPから各エステートに「“The Concerned Photographer”にとって価値あるセカンド・ホーム、二番目の家が見つかったことが大変嬉しい」と書かれたICPの書面とともに契約書が郵送され、両者のサインが終わって、1998年、作品はすべてK・MoPAの収蔵となった。当時はまだメールの時代ではなく、約1年にわたりFAXでのやりとりや、夜中の国際電話、そしてICPまで出向いたこともあった。開館20周年にあたる本年、ついにその全貌を初めて公開することができる。写真家たち自身が、フォトジャーナリズムの新たな舞台の扉をこじ開けた記念すべき展覧会だ。

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