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HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第一回

K・MoPAでは、現在「井津建郎:インド―光のもとへ」を好評開催中です。生と死の尊厳というテーマに踏み込み、新境地を見出した井津建郎。ニューヨークに拠点を置き、プラチナ・プリント作品では世界屈指と言われる写真家でありながら、アジアに小児病院を創設、NPOの代表を務めるなど、異色の経歴の持ち主です。展覧会にあたり、ノンフィクション作家・山岡淳一郎が、来日中の井津建郎にロング・インタビュー。医者を志した岩国での少年時代から一転、写真家を目指しニューヨークへ!そしてエジプト、カンボジア、ブータンから現在のインドへの旅に至った半生を書き下ろし、その人物像にせまりました。本ページで全6回の連載をいたします。どうぞお楽しみください。

 

「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生

山岡淳一郎

 <第一回>

老いた男が粗末な寝台に横たわっている。

娘だろうか、サリーをまとった女が傍らに座り、老人の手を握る。死は近い。中年の男性が床にあぐらをかき、本を開いて手で拍子をとりながら語りかけている。古代インドの長編叙事詩、ラーマーヤナを朗誦しているようだ。逝く人の胸奥に向けて……。

井津建郎の最新写真集、『永遠の光(ETERNAL LIGHT)』の一場面である。

ここ数年、井津は聖地ベナレスの「ムクティ・バワン」に通った。ヒンディー語でムクティとは「解脱」、バワンは「館」。ただ、ガイドブックはあけすけに「死を待つ家」と訳している。死期が迫った人と、その家族が永訣のときを迎えるために泊まる宿である。

ガンジス河畔のムクティ・バワンは、かつて死を待つ人で溢れていたが、インド経済の発展著しい現在、閑古鳥が鳴いている。お金を持った人びとは病院や、特別に用意したホテルで死を迎える。つまり、井津がカメラを向けた人たちは、皆、貧しい。昔ながらの安宿で看取り、看取られ、すぐ荼毘に付し、そそくさと帰っていく。暮らしに余裕などない。

ところが、写っている生者も死者も「苦」を超えた静けさに包まれている。この澄み切った静謐さは何がもたらすのだろう。時がゆっくりと循環しているようだ。井津は、語る。

「よく『死を待つ家』と言いますが、違うなぁと思います。どんなに貧しくても、尊厳が保たれていて、じっと死を待つのではなく、出発する感じ。来世へ橋渡しをしてもらって旅立つ。宿には司祭もいます。皆さん、苦悩多き現世からの解脱を信じて徳を積もう、と。死を『自然』として受けとめているのでしょう。火葬場で写真を撮らせてほしいと頼んで、家族に断られたのは過去3年間で1度だけ。日本じゃ考えられませんよね」

『永遠の光』は不思議な感覚を呼び起こす。過去が現在に溶け込み、現在が未来を照らしだす。終盤で、どんでん返し(?)のような肖像が現れ、無窮のときの流れに吸い込まれていく。写真集全体が「旅」のようでもある。

ふと、疑問がよぎる。写真家の枠に収まらない井津は、どんな人生の旅路を経てここに至ったのだろうか。大学2年で日本を飛び出してニューヨークに渡り、スタジオを構えて広告写真で成功した。しかし表現として飽き足らず、ピラミッドを手始めに「遺跡」を撮って、独自の境地を切り開く。アンコール・ワットの撮影を機にカンボジアの子どもたちの悲惨な実情を知り、日米に非営利団体を設立して小児病院を建てる。ラオスにも小児病院を開いた。ブータンではポートレートに覚醒し、インドで聖地の奥へと踏み込んだ。と、さらりとなぞっただけでも、かなり起伏に富んだ人生が目にうかぶ。

井津は、1949年に大阪市で生まれている。幼いころ、新聞記者の父と母は離婚。母と一緒に山口県岩国市に移り、中学、高校時代を過ごした。それでは、シングルマザーと細菌学者に憧れる少年が暮らす岩国から人生の物語を始めよう。

第二回につづく

 

◎井津建郎 /写真家(1949-)

20歳で渡米後、100キロの大型カメラで世界の遺跡を撮影する。写真のアカデミー賞、ルーシー・アワード受賞(米、2007)。小児病院建設のため認定NPO法人フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーを創設、同USA理事、名誉会長。同団体JAPAN理事、副代表。

 

◎山岡淳一郎 /ノンフィクション作家(1959-)

愛媛県生まれ。「人と時代」を共通テーマに政治、近現代史、医療、建築など分野を超えて旺盛に執筆。時事番組の司会も務める。著書は『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『原発と権力』『国民皆保険が危ない』他多数。

 

井津建郎《夜明けのギザのピラミッド、エジプト》1985年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《夜明けのギザのピラミッド、エジプト》1985年
プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラノ・ララク山のモアイ像、イースター島》1989年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラノ・ララク山のモアイ像、イースター島》1989年
プラチナ・プリント、当館蔵

 

 

 

 

HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第二回

ノンフィクション作家・山岡淳一郎が旅する写真家・井津建郎の人物像を浮き彫りにする連載の第二回。1949年、大阪に生まれ、移住先の岩国で、シングルマザーと暮らしながら細菌学者に憧れる井津少年の成長を追います。

 

「石」と「人」を巡る冒険 井津建郎の半生

山岡淳一郎

<第二回>

野口英世を目指したはずが

 

母は、建郎の勉強部屋に入ってくるなり、

「臭い、臭いよ。何をしとるの?」と鼻をつまんでカーテンを引き寄せ、窓を開け放った。

「あーあ、腐敗菌を培養してるのに……。母さん、気温が下がってしまうよ」。

顕微鏡を覗く建郎が応えた。机上の温熱器に肉のかけらを載せた寒天培地が入っている。顕微鏡にはアダプタで子供用カメラが取り付けてある。すべて手づくりだ。建郎は培養した細菌が細胞分裂で増殖するのを観察しては胸を躍らせた。たった1つの細胞が、少しの間に100、200に増える。「細菌は強力だな、ぼくもパスツールや野口英世みたいな医者になろう」と夢中でシャッターを切った。

事情を知らない人は部屋の異臭を気味悪がった。母は飲食店を切り盛りしていた。「臭い、臭い」とぼやく母の態度が変わったのは雑誌に投稿した写真で賞をとってからだった。

「ずいぶん熱心に顕微鏡の写真を撮るねぇ。何か欲しいものあるんやない?」

建郎は戸惑った。家は裕福ではなかった。ためらっていると「いいよ、言ってごらん」と母がうながす。「……一眼レフのカメラが欲しい」。

しばらくして手にしたミノルタは、ずっしりと重たかった。

一眼レフがとらえる実像は鮮やかだ。いよいよ細菌学者への道をまっしぐら、と気もちは高ぶるが、現実はそう甘くはない。岩国高校に進み、大学受験が迫ってくると教師から冷徹に宣告された。

「きみ、この数学、化学、物理の点数で医学部はおこがましいね」。

理系から文系に転じた建郎は、一眼レフを顕微鏡から外して、瀬戸内海に面した岩国の美しい山野にレンズを向けた。これが決定的な転機であった。錦川を渡る風を写し、船で大島に渡って海鳴りを撮る。ときは全共闘の学生運動真っ盛り、機動隊に守られて日本大学芸術学部を受験し、写真学科に進んだ。

日大写真学科で同級の松島彰雄は、「まさか大学2年でニューヨークに行っちゃうなんて」と、今でも信じられないといった顔つきで回想する。

「ちょうど国鉄(現JR)が広告代理店のプロデュースで『ディスカバー・ジャパン』のキャンペーンを始めて、きれいな広告写真があちこちで使われていました。卒業したら代理店に入りたい、出版社へ入りたいと僕らは言ってたけど、井津は違ってました。写真で自活しようと決めていたみたい。仲間8人で、羽田から井津を見送ったんです」

そのころ、写真を芸術作品として展示する美術館は「ニューヨーク近代美術館(MoMA)」だけだった。ニューヨークには写真専門のギャラリーもあり、写真がアートとして売買されていた。「写真が芸術と認められているのを見てみたい。ひょっとして将来はぼくも……」。井津は2か月間の休学届を出してアメリカに渡った。

第三回につづく

 

井津建郎《スティル・ライフ #189》1992年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《スティル・ライフ #189》1992年
プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《スティル・ライフ #63》1987年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《スティル・ライフ #63》1987年
プラチナ・プリント、当館蔵

 

 

HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第三回

医者になる夢が頓挫、写真で身を立てることを決意した青年・井津は、大学を休学し、わずかなお金を手にアメリカへ ―。第三回では、写真家・井津建郎の人生が、大きく動き出します。

 

「石」と「人」を巡る冒険 井津建郎の半生

山岡淳一郎

<第三回>

ニューヨーク―皿洗いから広告写真の世界へ

 

1970年の秋、羽田を発ってロサンゼルスに降りた井津は、グレイハウンドのバスに乗り換え、3泊4日かけて大陸を横断する。ニューヨークにたどり着いたときには、ポケットの残金はわずか85ドル(=30600円)だった。

翌日から職を探して「華厳」という日本食レストランにもぐり込む。明るい人柄が気に入られ、皿洗いからウェイター、コックと順調に昇進した。たちまちチップを含めて週に200ドル稼ぐようになる。

写真家の奈良原一高がニューヨークにいると知った井津は、電話帳で調べて会いに行く。初対面の奈良原は、快く知人を紹介してくれた。そこから人脈が広がり、日本人カメラマンのアシスタントに就く。3か月働いた「華厳」を辞めると給料は4分の1に減ったが、スタジオで英語も本格的に学べた。日本への未練は、母への後ろめたさも含めて、消した。

次のボスは、黒人のファッションカメラマンだった。ボスの写真は有名なファッション誌の表紙を飾った。スタジオは大きく、女優やモデルを撮る場所の他に物撮り(商品の撮影)用の小さなスタジオも幾つもあった。

アシスタント生活が3年に及んだある日、ボスは井津に「いい話」を持ちかけてきた。

「ケンロウ、俺のアソシエイト(仲間)にならないか。おまえの物撮りの腕は、うちのスタジオでピカイチだ。俺が女優を撮って、おまえが化粧品を撮れば最高の組み合わせだ。カメラマンになれば給料も上がる。取り分をパーセンテージで決めようじゃないか。こんなにいい話はないだろう」。

どんなアシスタントでも飛びつきそうなオイシイ話である。

だが……、井津は首を横に振った。唖然とするボスを見すえて、きっぱりと言った。

「正直言って、こんな写真は好きじゃないし、ぼくには向いていない。あんたの写真には学ぶところはない」。大音量でポップスを流し、モデルに「セクシー」を連発しながら撮る写真が、井津には軽薄に感じられて仕方なかった。人を撮るのはもうこりごりだ。

「さっさと出ていけ!」。ボスは目を血走らせて怒鳴った。

スタジオを飛び出ると、タイムズスクエアのネオンがにじみ、目にしみた。

 

第四回につづく

井津建郎《ラダック#67、スピトク・ゴンパ仏具、インド》1999年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラダック#67、スピトク・ゴンパ仏具、インド》1999年
プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラダック#43、ラマユル・ゴンパ仏具、インド》1999年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラダック#43、ラマユル・ゴンパ仏具、インド》1999年
プラチナ・プリント、当館蔵

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