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HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第二回

ノンフィクション作家・山岡淳一郎が旅する写真家・井津建郎の人物像を浮き彫りにする連載の第二回。1949年、大阪に生まれ、移住先の岩国で、シングルマザーと暮らしながら細菌学者に憧れる井津少年の成長を追います。

 

「石」と「人」を巡る冒険 井津建郎の半生

山岡淳一郎

<第二回>

野口英世を目指したはずが

 

母は、建郎の勉強部屋に入ってくるなり、

「臭い、臭いよ。何をしとるの?」と鼻をつまんでカーテンを引き寄せ、窓を開け放った。

「あーあ、腐敗菌を培養してるのに……。母さん、気温が下がってしまうよ」。

顕微鏡を覗く建郎が応えた。机上の温熱器に肉のかけらを載せた寒天培地が入っている。顕微鏡にはアダプタで子供用カメラが取り付けてある。すべて手づくりだ。建郎は培養した細菌が細胞分裂で増殖するのを観察しては胸を躍らせた。たった1つの細胞が、少しの間に100、200に増える。「細菌は強力だな、ぼくもパスツールや野口英世みたいな医者になろう」と夢中でシャッターを切った。

事情を知らない人は部屋の異臭を気味悪がった。母は飲食店を切り盛りしていた。「臭い、臭い」とぼやく母の態度が変わったのは雑誌に投稿した写真で賞をとってからだった。

「ずいぶん熱心に顕微鏡の写真を撮るねぇ。何か欲しいものあるんやない?」

建郎は戸惑った。家は裕福ではなかった。ためらっていると「いいよ、言ってごらん」と母がうながす。「……一眼レフのカメラが欲しい」。

しばらくして手にしたミノルタは、ずっしりと重たかった。

一眼レフがとらえる実像は鮮やかだ。いよいよ細菌学者への道をまっしぐら、と気もちは高ぶるが、現実はそう甘くはない。岩国高校に進み、大学受験が迫ってくると教師から冷徹に宣告された。

「きみ、この数学、化学、物理の点数で医学部はおこがましいね」。

理系から文系に転じた建郎は、一眼レフを顕微鏡から外して、瀬戸内海に面した岩国の美しい山野にレンズを向けた。これが決定的な転機であった。錦川を渡る風を写し、船で大島に渡って海鳴りを撮る。ときは全共闘の学生運動真っ盛り、機動隊に守られて日本大学芸術学部を受験し、写真学科に進んだ。

日大写真学科で同級の松島彰雄は、「まさか大学2年でニューヨークに行っちゃうなんて」と、今でも信じられないといった顔つきで回想する。

「ちょうど国鉄(現JR)が広告代理店のプロデュースで『ディスカバー・ジャパン』のキャンペーンを始めて、きれいな広告写真があちこちで使われていました。卒業したら代理店に入りたい、出版社へ入りたいと僕らは言ってたけど、井津は違ってました。写真で自活しようと決めていたみたい。仲間8人で、羽田から井津を見送ったんです」

そのころ、写真を芸術作品として展示する美術館は「ニューヨーク近代美術館(MoMA)」だけだった。ニューヨークには写真専門のギャラリーもあり、写真がアートとして売買されていた。「写真が芸術と認められているのを見てみたい。ひょっとして将来はぼくも……」。井津は2か月間の休学届を出してアメリカに渡った。

第三回につづく

 

井津建郎《スティル・ライフ #189》1992年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《スティル・ライフ #189》1992年
プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《スティル・ライフ #63》1987年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《スティル・ライフ #63》1987年
プラチナ・プリント、当館蔵

 

 

HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第三回

医者になる夢が頓挫、写真で身を立てることを決意した青年・井津は、大学を休学し、わずかなお金を手にアメリカへ ―。第三回では、写真家・井津建郎の人生が、大きく動き出します。

 

「石」と「人」を巡る冒険 井津建郎の半生

山岡淳一郎

<第三回>

ニューヨーク―皿洗いから広告写真の世界へ

 

1970年の秋、羽田を発ってロサンゼルスに降りた井津は、グレイハウンドのバスに乗り換え、3泊4日かけて大陸を横断する。ニューヨークにたどり着いたときには、ポケットの残金はわずか85ドル(=30600円)だった。

翌日から職を探して「華厳」という日本食レストランにもぐり込む。明るい人柄が気に入られ、皿洗いからウェイター、コックと順調に昇進した。たちまちチップを含めて週に200ドル稼ぐようになる。

写真家の奈良原一高がニューヨークにいると知った井津は、電話帳で調べて会いに行く。初対面の奈良原は、快く知人を紹介してくれた。そこから人脈が広がり、日本人カメラマンのアシスタントに就く。3か月働いた「華厳」を辞めると給料は4分の1に減ったが、スタジオで英語も本格的に学べた。日本への未練は、母への後ろめたさも含めて、消した。

次のボスは、黒人のファッションカメラマンだった。ボスの写真は有名なファッション誌の表紙を飾った。スタジオは大きく、女優やモデルを撮る場所の他に物撮り(商品の撮影)用の小さなスタジオも幾つもあった。

アシスタント生活が3年に及んだある日、ボスは井津に「いい話」を持ちかけてきた。

「ケンロウ、俺のアソシエイト(仲間)にならないか。おまえの物撮りの腕は、うちのスタジオでピカイチだ。俺が女優を撮って、おまえが化粧品を撮れば最高の組み合わせだ。カメラマンになれば給料も上がる。取り分をパーセンテージで決めようじゃないか。こんなにいい話はないだろう」。

どんなアシスタントでも飛びつきそうなオイシイ話である。

だが……、井津は首を横に振った。唖然とするボスを見すえて、きっぱりと言った。

「正直言って、こんな写真は好きじゃないし、ぼくには向いていない。あんたの写真には学ぶところはない」。大音量でポップスを流し、モデルに「セクシー」を連発しながら撮る写真が、井津には軽薄に感じられて仕方なかった。人を撮るのはもうこりごりだ。

「さっさと出ていけ!」。ボスは目を血走らせて怒鳴った。

スタジオを飛び出ると、タイムズスクエアのネオンがにじみ、目にしみた。

 

第四回につづく

井津建郎《ラダック#67、スピトク・ゴンパ仏具、インド》1999年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラダック#67、スピトク・ゴンパ仏具、インド》1999年
プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラダック#43、ラマユル・ゴンパ仏具、インド》1999年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラダック#43、ラマユル・ゴンパ仏具、インド》1999年
プラチナ・プリント、当館蔵

HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第四回

自らの意思でニューヨークのファッション写真界を飛び出した、血気盛んな20代の井津建郎。30歳を目前に悩み、そして写真への畏れを見出していきます。

 

「石」と「人」を巡る冒険 井津建郎の半生

                   山岡淳一郎

<第四回>

宝石とピラミッド ― 転機の訪れ

 

井津はマンハッタンに自分のスタジオを設立した。最初の年はまったく仕事がなく、収入は800ドルだった。見込み違いも甚だしい。翌年、宝石会社のディレクターが「アンティーク・ジュエリーを撮らないか」と誘ってきた。「宝石の撮り方は知らない」と応じると、「教えるとおりにライティングをやればいいよ」と寛大に発注してくれた。

ここも大きなターニング・ポイントだった。物撮りに秀でた井津は、光モノのなかで最も難しい宝石の撮影で頭角を現す。カルティエ、ハリー・ウィンストン、ティファニーと錚々たる宝石メーカーがクライアントにつく。ワンカット=1万ドルの扉が開いた。

スタジオは軌道に乗り、営業専門のマネージャーやアシスタントを含めてスタッフは6人に増えた。大学時代の同級生、松島たちが遊びにきて「すごいな。アメリカン・ドリームだね」と讃える。しかし、内面は満たされなかった。心の声は井津にこう囁きかける。

「金を稼ぎたくてニューヨークに来たのかい。自分のアメリカン・ドリームは何だ。自分の魂そのもの、と言えるような作品をつくることじゃないのか……」

30歳の誕生日を前に井津はスタジオを一か月閉めてエジプトに飛ぶ。少年時代に本で読んだ「世界の七不思議」への素朴な好奇心からギザのピラミッドを撮りに行った。砂漠に日が落ちるのを待って、ピラミッドの真上に北極星が輝く構図で三脚を立てた。明け方までシャッターを開け放す長時間露光に挑む。ピラミッドの背景で北極星を中心に星々が円軌道を描く、前衛芸術っぽい作品を狙った。

ニューヨークに戻り、期待を込めて星空の写真を現像する。現れた画像を見て、ゾーッと背筋が凍りついた。同心円を描くはずの星が、それぞれ虫が這ったようにくねくねぐにゃぐにゃ勝手に動いているのだ。もしも三脚が物理的に動いたのなら画像は吹っ飛んでいるに違いない。ありえない現象だった。

井津本人に、そのときの衝撃と以後の遺跡撮影のモットーを語ってもらおう。

「星がうわーっと凄いスピードで動いている。超常現象なんですかね。怖くなって、ネガは捨ててしまいました。ピラミッドのなかには王族の石棺も置いてある。お墓ですね。エジプト人の友人と内部に下りたときは、異様な風が吹き上げてきた。遺跡は聖地です。祈りの場です。敬意を払わねばなりません。つまらない考えで作ろうとしてはいけないのです。あれから遺跡、聖地では作為を捨てた。正確に写しとろうと心がけています。遺跡を撮るときは、三脚を立てる前に拝みます。仏教徒なので手を合わせ、南無阿弥陀仏、お邪魔します、とね。撮り終わったら三脚の跡も残さないようきれいにしてその場所を出ます」

人間を超えた存在への敬虔な思い。井津の写真を包む静寂は、そこに根差しているのかもしれない。遺跡は、井津に「自分だけが感じる空気感覚」を撮るというテーマを与えた。遺跡には人の住む場所とは異なる気配がある。それを撮ろうと大判カメラを使う。初めは「シノゴ(4×5インチ)」を用いた。「全然ダメだ」と5×7インチ(130㎜×180㎜)に変えるが、まだ物足りない。結局、14×20インチ(355㎜×508㎜)のカメラを、シカゴのメーカーに特注で製作してもらう。プラチナ・プリントの技法も身につけた。

井津は総重量130キロのカメラ機材を担ぎ、ガイドや運転手、ポーター、料理人らとキャラバンを組んでヒマラヤやチベット、南米の遺跡をめぐった。聖地では自分だけの「空気感覚」をとらえるまで、カメラを持たずに歩き回り、ここぞというところでシャッターを切る。気が付けば美術館に井津の聖地写真が並んでいた。そして、内戦の爪痕深いカンボジアのアンコール・ワットへ撮影に行き、生き方を変えるほどの情動を抱え込んだのだった。

 

第五回につづく

 

井津建郎《アンコール#27、タ・プローム、カンボジア》1993年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《アンコール#27、タ・プローム、カンボジア》1993年
プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《アンコール#88、アンコール・ワット、カンボジア》1994年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《アンコール#88、アンコール・ワット、カンボジア》1994年
プラチナ・プリント、当館蔵

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