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Curator’s Choice #10

YP2015:イスラム国の被害を取材するフォトジャーナリストたち イスマイル・フェルドゥス、林典子 清里フォトアートミュージアム 学芸員 山地裕子

ベルギーで発生した連続テロから、早くも三週間が経過しました。次は何処が標的となるのか、イスラム国によるテロの脅威は、日々世界を震撼させています。開催中の「2015年度ヤング・ポートフォリオ」においても、2人のフォトジャーナリストが、イスラム国の犠牲者を取材した作品を展示しています。 同じテーマを取材する場合でも、写真家の視座はさまざまです。それぞれの行動スタイルやキャラクターに合った取材方法によってこそ力を発揮することが、2人の写真に表れています。

イスマイル・フェルドゥス《イスラム国に包囲されたコバニの住民》2014

イスマイル・フェルドゥス《イスラム国に包囲されたコバニの住民》2014 ⒸIsmail Ferdous

イスマイル・フェルドゥス《イスラム国に包囲されたコバニの住民》2014

イスマイル・フェルドゥス《イスラム国に包囲されたコバニの住民》2014 ⒸIsmail Ferdous

バングラデシュ出身のイスマイル・フェルドゥス(1989)は、2014年10月、イスラム国に砲撃されたシリアのクルド系少数民族であるヤズディ教徒を取材。シリア北部のアレッポ県コバニ市から追放され、難民となってトルコ国境を目指すヤズディ教徒数百人に同行し、撮影しています。彼らが自宅から持ち出せたものは、鞄ひとつ、赤ん坊を寝かせたバスケットひとつ、あるいは、背負える家族ひとり ?? 難民キャンプ内の子どもたちの眼差しはうつろで、深い絶望を伝えています。フェルドゥスによれば、トルコに入国したクルド人は30万人以上。しかし、クルド人が到着したとき、トルコの難民キャンプにはすでに85万人のシリア難民が避難していたとのこと。母国と我が家を突然離れざるを得なかった人々の、恐怖と失望の道のりに寄り添い、その状況を見事なスナップワークでとらえています。

イスマイル・フェルドゥス《イスラム国に包囲されたコバニの住民》2014

イスマイル・フェルドゥス《イスラム国に包囲されたコバニの住民》2014

イスマイル・フェルドゥス《イスラム国に包囲されたコバニの住民》2014

イスマイル・フェルドゥス《イスラム国に包囲されたコバニの住民》2014

一方、日本の林典子(1983)は、イスラム国兵士に誘拐され、命がけの脱出に成功した女性たちを、2015年3月イラクにて取材し、彼女たちの壮絶な体験を記録しています。女性たちは、頭から顔までスカーフを被っており、見えているのは目のみ。写真に付けられたキャプションからは、彼女たちが受けた虐待について、淡々と語る様子が浮かび上がる一方で、レンズを見つめる彼女たちの視線に圧倒されます。

林典子《ヤズディ》2015

林典子《ヤズディ》2015

YPでは2010年度より林典子の作品を何度か収蔵していますが、今回はこれまでの作品と少し異なる印象を受けました。この撮影が、厳しい条件下で行われたことは容易に想像できますが、その経緯について、また今後の取材について、本人にインタビューいたしましたのでどうぞご覧ください。

* * *

K’MoPA:今回ご応募いただいた作品は、全て女性の顔写真で、彼女たちは頭と顔に布を被り、目だけが見えていました。撮影に際して、彼女たちは、それを条件に許可を出したのでしょうか?

林典子:彼女たちの家族や親戚は、まだISIS(アイシス、Islamic State of Iraq and Syria)に拉致されたままです。本名を記録され、兵士に顔を覚えられているため、メディアの取材に応じていることがISISに知られると、家族に危害が加えられる(殺される)可能性があります。そのため、一部の女性を除き、目だけが見えるなら、という条件で撮影許可が得られました。

林典子《HIV/無音の世界に生きる?ボンヘイのストーリー》2009

林典子《HIV/無音の世界に生きる?ボンヘイのストーリー》2009 ⒸNoriko Hayashi

K’MoPA: ヤング・ポートフォリオでこれまで収蔵した林さんの作品は、2009年撮影の《HIV/無音の世界に生きる~ボンヘイのストーリー》をはじめ、《パキスタン:酸に焼かれた人生 セイダのストーリー》(2010年撮影)、《東日本大震災 - 混沌と静寂》(2011年)、そして現在も取材を継続しているという《キルギス さらわれる花嫁》(2012年)でした。今回のシリーズは、これまでの、現場に密着するドキュメント作品のイメージとは、少し異なる印象を持ちました。撮影のスタイルを変えたのか、どういう思いだったのでしょうか?

:今回YP2015で選んでいただいた写真は、全て顔だけのポートレートでしたが、基本的にイラクでも、従来同様、ドキュメントのスタイルで撮影しています。例えば、今回のチラシに載せていただいた、白いスカーフを顔に巻いた少女がいます。私は、彼女と一緒に難民キャンプで生活し、顔が分からないようにしながら、ずっと撮影していました。彼女はその後ドイツ南部に避難したのですが、2016年2月、新天地で生活している彼女に再会し、取材しました。また、女性以外にも、ある難民家族の日常を追ったり、風景なども撮影していますので、取材のスタイルは変わっていません。今回の応募はポートレイトだけとなったのですが、この女性たちについては、イラクからドイツに渡った先の新たな生活も取材しています。やっとまとまってきたような感じがしていますので、これから発表します。

林典子《パキスタン:酸に焼かれた人生 セイダのストーリー》2010

林典子《パキスタン:酸に焼かれた人生 セイダのストーリー》2010 ⒸNoriko Hayashi

林典子《キルギス さらわれる花嫁     前日に誘拐で結婚したアフマットとディナラ。結婚式のセレモニーで祈りを捧げる。》2012

林典子《キルギス さらわれる花嫁    
前日に誘拐で結婚したアフマットとディナラ。結婚式のセレモニーで祈りを捧げる。》2012 ⒸNoriko Hayashi

以前に収蔵していただいたキルギスやパキスタンでのシリーズについても、被害者の方たちのポートレートは多数撮影しており、今回のイラクも、インタビューをした女性たちのポートレートは必ず撮影するようにしています。全ての女性たちの日常を追い続けることは不可能ですが、一部の女性たちについては、一緒に生活しながら撮影します。

K’MoPA:今後も彼女たちの取材を継続される予定ですか?また、ISISの取材については、なんらかの形で発表をお考えでしょうか?

:はい。出来る限り続けて行きます。今後の写真展や本(単行本)の出版は決まっています。単行本ですと、掲載できる写真の枚数が限られているので、出来れば写真集を出したいなという希望があります。

* * *

女性同士という安心感もあるのでしょう。林典子は、時間をかけて信頼関係を作り、共に生活して、初めて見えてくる表情や言葉を丁寧に記録しています。キルギスや、イラクの女性たちを長期にわたって取材した結果、見えてくるものは何か  — ぜひ2016年度YPにも継続してご応募いただき、収蔵することができれば、既にコレクションしたシリーズに厚みを増すことができると思いますので、今後の作品に期待しています。また、フェルドゥスは、ダッカの鮮やかなストリート・スナップのシリーズを2011年度に収蔵し、翌年には、モノクロ表現によるシリーズを収蔵。現在は、バングラデシュを代表する新進フォトジャーナリストのひとりとして世界を舞台に活躍しています。今後のYPでもぜひご注目ください。

Curator’s Choice

写真家マルク・リブーと写真家/キュレーター/写真教育者・ネイサン・ライオンズが逝去

清里フォトアートミュージアム 学芸員・山地裕子


8月30日、マルク・リブー(フランス、1923-2016)が93歳で亡くなったというニュースが世界を駆け巡りましたが、本日、9月1日は、アメリカからネイサン・ライオンズが亡くなったと、悲しいニュースが入って来ました。写真家集団「マグナム」のメンバーでマグナムの黄金期を知る最後の写真家、そして20世紀フォトジャーナリストを代表する写真家のひとりであるマルク・リブーは、現在、フォトジャーナリズムのフェスティバル、仏・ペルピニャンにて展覧会「キューバ」が開催中でした。“時代の証言者”として数々のルポルタージュを発表し、多くの写真家に影響を与えたリブー。当館では、代表作のなかの一枚、1967年、ワシントンD.C.でのベトナム反戦デモで、参加者に銃口を向ける兵士の前で、一輪の花を手に佇む女性を捉えた作品を収蔵しています。 現在、展覧会「インド ー 光のもとへ」を開催中の井津建郎も、リブーのアンコール遺跡の写真集を手に取ったことをきっかけに、1993年カンボジアへ向かったのです。さらに言えば、アンコール遺跡での撮影中に地雷の被害や、治療を受けられない子どもたちの実態を目の当たりにしたことから、井津は現地に小児病院を設立し、この病院の活動が無ければ、インドにて命の尊厳を見つめる展示中の作品も生まれなかったことを考えると、一枚の写真、一冊の写真集の持つ力は計り知れないものがあります。 また、ネイサン・ライオンズは、写真家、キュレーター、写真教育者として、ニューヨーク州ロチェスター(コダック社の町)を拠点に活動していました。ロチェスターに写真教育機関Visual Studies Workshop(1969?2001)とSociety for Photographic Education を設立し、ニューヨーク近代美術館写真部長ジョン・シャーカフフキーらと国際写真キュレーター会議「オラクル」を設立しました。その他、ニューヨーク州立大学Brockport校や、Rhode Island School of Design、Corcoran School of Artなど多くの大学にて教鞭をとりました。この秋にはThe Center for Photography at WoodstockとLucie Foundation から賞を受賞する予定でした。そして、2018年にはジョージ・イーストマン・ミュージアムでの回顧展も決まっています。長年、ヒューストン美術館のキュレーターをつとめ、2003年に大規模な「日本写真史展」を開催したアン・タッカーも、ライオンズの生徒のひとりでした。 そのおおらかで暖かな人柄から、多くの写真関係者に慕われていたライオンズ。写真を見る視点、知識、感じる心、そして寛容さ・・・そのレガシーは彼と関わった人々の心の中に永遠に生き続けることでしょう。

1997年5月、ネイサン・ライオンズ、ジョアンご夫妻歓迎パーティにて(都内)左から細江館長、ネイサン・ライオンズ、山地学芸員、ジョアン夫人

1997年5月、ネイサン・ライオンズ、ジョアンご夫妻歓迎パーティにて(都内)左から細江館長、ネイサン・ライオンズ、山地学芸員、ジョアン夫人

左)ライオンズ、右は、故・澤本徳美先生(日本大学芸術学部写真学科教授)

左)ライオンズ、右は、故・澤本徳美先生(日本大学芸術学部写真学科教授)

 

左)ネイサン・ライオンズ、右)三木多聞東京都写真美術館館長(当時)

左)ネイサン・ライオンズ、右)三木多聞東京都写真美術館館長(当時)

ライオンズご夫妻歓迎パーティにて、(左)東京都写真美術館学芸員・笠原美智子氏。

ライオンズご夫妻歓迎パーティにて、(左)東京都写真美術館学芸員・笠原美智子氏。

左)ネイサン・ライオンズ、右)写真ディレクター・山岸亨子氏

左)ネイサン・ライオンズ、右)写真ディレクター・山岸亨子氏

左)PPS通信社代表取締役社長ロバート・L. カーシンバウム氏。右)ネイサン・ライオンズ

左)PPS通信社代表取締役社長ロバート・L.? カーシンバウム氏。右)ネイサン・ライオンズ

ライオンズは、当館細江館長とも長年の友人でした。 1964年、初めてアメリカを訪れた細江英公は、ジョージ・イーストマン・ハウスのキュレーターであったライオンズと知己を得て、1968年、「世界の偉大な写真家たち:ジョージ・イーストマン・ハウス・コレクション展」(主催:日本写真家協会)を東京他国内4カ所で開催しています。「海外の優れた作品を日本で展示したい」という細江館長の熱い思いと、それに応え、協力を惜しまなかったライオンズ。二人の間の深い理解がなければなし得なかった展覧会だったことは言うまでもありません。 1995年、KMoPAが開館し、KMoPAは、1997年にライオンズとジョアン夫人をお招きいたしました。1998年にKMoPAにて国際写真キュレーター会議「オラクル」を開催するため、そして、どのような4日間の会議を運営するべきか、ライオンズには大変なご尽力をいただきました。1998年11月に主催した「第16回オラクル」には世界各国の写真キュレーター117名が参加。参加者全員に「ヤング・ポートフォリオ」ご覧いただいたことから、YPは大きく国際化することができたのです。当時浸透し始めていたインターネットも追い風となりましたが、改めて思うことは、何よりも人と人とのつながりによって今のKMoPAのがあるということ。このことを大切に今後も活動して行きたいと思います。 マルク・リブーとネイサン・ライオンズ、二人の20世紀の偉大な写真家のご逝去にあたり、心よりご冥福をお祈りいたします。

1998年11月、KMoPAにて開催の国際写真キュレーター会議「オラクル」にて鏡開きをするライオンズ(右)、細江館長(中)、ジェームズ・エニアート氏(左)

1998年11月、KMoPAにて開催の国際写真キュレーター会議「オラクル」にて鏡開きをするライオンズ(右)、細江館長(中)、ジェームズ・エニアート氏(左)

1998年11月、KMoPAにて開催した国際写真キュレーター会議「オラクル」での青空ミーティング。ライオンズは、グループ後列で立って議論を見守っている。

1998年11月、KMoPAにて開催した国際写真キュレーター会議「オラクル」での青空ミーティング。ライオンズは、グループ後列で立って議論を見守っている。

 

成田空港から参加者全員で新宿へ向かう車中にて。

成田空港から参加者全員で新宿へ向かう車中にて。

身曾伎神社(小淵沢町)の能舞台前で「オラクル」参加者全員の集合写真。 身曾伎神社(小淵沢町)の能舞台前で「オラクル」参加者全員の集合写真。

Curator’s Choice #8

K・MoPA開館20周年記念「未来への遺産:写真報道の理念に捧ぐ」展について③ 清里フォトアートミュージアム 主任学芸員 山地 裕子

<コンサーンド・フォトグラファーと写真家・久保田博二>

1967年9月30日付ニューヨークタイムズの35面中程に、ニューヨークのリバーサイド・ミュージアムにて開催される「コンサーンド・フォトグラファー」展の記事が掲載されている。

ニューヨークタイムズ 1967年9月30日、35面

ニューヨークタイムズ
1967年9月30日、35面

上段の記事は、ミッチェル・ホールというニューヨーク・ハーレムに住む少年のストーリーで、その写真を撮影したのが、現在のマグナム・フォト東京支社代表の写真家・久保田博二である。久保田は当時28歳。早稲田大学政経学部卒業後、写真家を志して渡米し、シカゴ・ニューヨークに6年間滞在していた時である。紙面に同時に掲載されたことは、全くの偶然ではあったが、久保田と「コンサーンド・フォトグラファー」展との深い関係にも触れておきたい。 ? 久保田が、写真家を目指したきっかけとなったのは、1961年、マグナム・フォトの写真家・エリオット・アーウィット、ルネ・ブリ、バート・グリンらが来日した際に遡る。久保田は、彼らの取材にアシスタントとして同行し、通訳兼ドライバーをつとめた。 後に帰国したアーウィットから、お礼に贈られたアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集『決定的瞬間』に魅せられ、また彼らの颯爽とした取材ぶりに憧れ、写真家を目指したのである。一般の国民は未だ海外渡航も自由に出来なかった時代に、(1964年自由化)アーウィットが保証人となって、久保田は、大学卒業と同時に渡米した。ニューヨークに着くとすぐに、アーウィットの勧めでコーネル・キャパの元へ挨拶に向かう。以来、コーネル夫婦は、本当の息子のように久保田の面倒を見、人脈作りをはじめ、経済的にも支えたが、そのことを声高に言うことは決して無かったという。

<「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」>

1967年、久保田は、6年間のアメリカ滞在から日本へ帰国する。コーネルは日本での「コンサーンド・フォトグラファー」展の開催を希望し、久保田にいっさいを任せた。展覧会の日本語タイトル「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」と題し、主催・毎日新聞社の冠のもと、スポンサーを探し、松屋銀座内の会場を手配し、図録のために写真家・濱谷浩氏へ寄稿を依頼。オープニングには、高松宮妃殿下をお迎えするアンドレ・ケルテス、コーネル・キャパ夫妻、濱谷浩夫妻らの写真が残されている。

1968年「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」と題され、高松宮妃殿下をお迎えして行われた松屋銀座でのオープニング風景。 写真右から3人目、高松宮妃喜久子妃殿下、アンドレ・ケルテス、コーネル・キャパ夫妻、エンサイクロペディア・ブリタニカ日本支社長フランク・ギブニー、写真家・濱谷浩夫妻 ?Estate of Andre Kertesz, New York, 2015

1968年「時代の目撃者 コンサーンド・フォトグラファー」と題され、高松宮妃殿下をお迎えして行われた松屋銀座でのオープニング風景。
写真右から3人目、高松宮妃喜久子妃殿下、アンドレ・ケルテス、コーネル・キャパ夫妻、エンサイクロペディア・ブリタニカ日本支社長フランク・ギブニー、写真家・濱谷浩夫妻
ⒸEstate of Andre Kertesz, New York, 2015

 

高松宮妃殿下に作品について語るアンドレ・ケルテス ?Estate of Andre Kertesz, New York, 2015

高松宮妃殿下に作品について語るアンドレ・ケルテス
ⒸEstate of Andre Kertesz, New York, 2015

驚くべきことは、この展覧会でプリントを販売したところ、ケルテスの作品がほぼすべて売れ、4,500ドルもの収益が出たと言うことだ。1968年当時の写真の売買がどのような状況だったかと言えば、アメリカで初めての写真ギャラリー(Witkin Gallery)が誕生したのが1969年。活発化するのは、米国内でさえ1970年代半ばまで待たなければならない。その状況で、ケルテスのプリントが日本で多数売れたという事実と、日本のコレクターの見識に驚かされる。 ケルテスの研究者・ロバート・グルボ氏によると、当時ケルテスは既に世界的な巨匠との名声を得ていたが、同時に“過去の人”という印象もあったことは本人も認識していたという。しかし、日本で作品が売れ、そして、岩波書店からハードカバーの大判写真集が出版されたことを非常に喜び、ケルテスは、日本によって再び写真家としてのエネルギーを取り戻したとグルボ氏は言う。重要な転機となったのが日本であり、ケルテスの初期作品を多く含んだ「コンサーンド」展でもあったのだ。また、3週間の日本滞在中、行動を共にしていたケルテスと久保田は意気投合。「(ケルテスと)写真の話はほとんどしなかった。」と言うが、生涯の親交を得ている。 「コンサーンド」展の終了後、コーネルは、久保田に「(展覧会の収益から)何か欲しいものはないか?」と尋ね、世界一周できるチケット(約1,000ドル)を手にする。これによって、ヨーロッパ、トルコ、レバノン、ヨルダン、サイプレス、インド、ミャンマー、香港を旅し、撮影した。この世界一周の旅は20代の写真家にとって魂を揺さぶられる経験であり、「1963年にワシントンD.C.で見たキング牧師の演説と大行進。そして、この世界一周の経験がなければ、今の自分は無い。」と断言する。「コンサーンド」展は、日本を代表する写真家をも生み出していたのである。 ? <世代から世代へ> ケルテスは、1930年代のパリで、若く才能あるロバート・キャパを支援し、久保田を励ました。コーネルもまた、久保田を支えた。優れた写真家が、若手の才能を見出し、献身的に支えるという“伝統”は、確かに息づいている。フォト・ジャーナリストという仕事が、写真家が単独で成し遂げられる性格のものではないこと、また、とてつもなく大きな物事に立ち向かっているという共通の認識も、おそらくその伝統を強固なものにしているのだろう。 「コンサーンド」展に、最年少で選ばれたレナード・フリードの作品は、展覧会を開催した1967年に撮影したばかりの作品も多く含まれ、才気あふれる若手写真家フリードの爆発的なエネルギーをこの展覧会に組み込むことによって、この伝統を次世代につなげていこうとしたコーネルの強い意志が伝わってくる。 以前に触れたように「コンサーン」(concern)という言葉の意味は、関心を持つこと、働きかけること、繋いでいくこと。「コンサーンド」展がもたらしたものは、社会と深い関わりを持つ写真家にはどのような仕事ができるのか、写真にはどんな力があるのか、写真と写真家の役割についての、それまで以上に強い“意識”ではないだろうか。 戦争の世紀と言われた20世紀。職業写真家たちは戦争へ向かい、人間が引き起こす様々な不条理に立ち向かった。しかし、この展覧会の6人の写真家が捉えたものは、センセーショナルな出来事だけではない。彼らの眼差しが、広く世界に向けて開かれ、土地土地に生きる人々の、日常の営みの中にこそ見える人間性をも等価に捉えていることを、本展はその構成によって示している。激しく社会が変化した世紀の中において、6人が目指したものは、人間が生きることの真価を力強く表現することであり、これらのプリントが、写真集の印刷に使用された後に、処分も散逸もせずに遺っていたことは運命とも思えてならない。人類が、20世紀と今後も向き合っていくなかで、再び世に出るタイミングが、いつかあるはず、と。私たちは、この写真群が、今後50年後も、100年後も変わらず、見る人の心に届き、記憶の中心に留められ、“遺産”として受け継がれていくことを切に願っている。

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