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大原治雄「ブラジルの光、家族の風景」 Haruo Ohara Fotografias

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会  期:10月22日(土)~12月4日(日)

休  館 日:10/11(火)~10/21(金)、毎週火曜日 *12月5日より冬期休館

会  場:清里フォトアートミュージアム

主  催:清里フォトアートミュージアム、モレイラ・サーレス財団、駐日ブラジル大使館

後  援:山梨県教育委員会、北杜市教育委員会

企画協力:株式会社コンタクト

 

Hoje você vê a flor

 Agradeça à semente de ontem

「昨日まかれた種に感謝 今日見る花を咲かせてくれた」 ―  大原治雄のメモより

朝の雲、パラナ州テラ・ボア、1952年 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

朝の雲、パラナ州テラ・ボア、1952年
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

 

 

 

 

 

 

 

 

本展覧会について 

治雄と幸、パラナ州、1954年頃 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

治雄と幸、パラナ州、1954年頃
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

ブラジルの大地、農の営み、家族を愛した大原治雄

大原治雄「ブラジルの光、家族の風景」は、日系移民として高知県からブラジルへわたり、アマチュア写真家として活動し、ブラジル国内で大変高い評価を得た“知られざる巨匠”大原治雄(おおはら はるお)の日本での大規模な回顧展です。

日本からブラジルへ、最初の移民船「笠戸丸」が出航したのは、1908年(明治41年)でした。大原はその翌年、1909年、高知県吾川郡三瀬村石見(現・いの町)に生まれました。1927年、17歳で家族らと集団移民としてブラジルに渡り、当初はサンパウロの農園で農場労働者として働きます。その後、未開拓の地、パラナ州ロンドリーナ(リオデジャネイロから約800キロ)に最初の開拓者の一人として入植します。

24歳で結婚。それを機に、大原は、人生の大切な日の記録を残すことのできる写真に興味を持ち、4年後に小型カメラを購入します。

初めて撮影したのは《オレンジの木の隣にいる幸(こう)》(幸は大原夫人)でした。以来、農作業の合間に写真を撮るようになります。

独自の研究を重ねて技術を習得し、やがて1951年(41歳)にはサンパウロの有名カメラクラブの会員となり、国内外の写真展に出品するほどとなります。1970年代初頭からは名前も知られ始め、地元の新聞への掲載、個展開催、フォトフェスティバルへの出品など、徐々に高い評価を受けるようになりました。

 

治雄の甥・眞田エリオとイチジクの木、パラナ州ロンドリーナ、1955年 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

治雄の甥・眞田エリオとイチジクの木、パラナ州ロンドリーナ、1955年
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

霜害後のコーヒー農園、パラナ州ロンドリーナ、1940年頃 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

霜害後のコーヒー農園、パラナ州ロンドリーナ、1940年頃
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

眞田準の農園、パラナ州ロンドリーナ、1955年 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

眞田準の農園、パラナ州ロンドリーナ、1955年
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<参考>日本からブラジルへの移民について

1895年、日本とブラジルは修好通商条約に調印し、外交関係を樹立。1908年(明治41年)に神戸港から781人が出発したのを始まりに、約100年間にわたり25万人が移住しました。 移民は当初、好待遇を約束されていましたが、奴隷制度廃止に伴う労働力不足を解消するため、コーヒー農園の労働者として酷使されました。しかし、日本人らしい持ち前の粘り強さと団結力を発揮し、農業の技術革新に貢献するなど、いつしかブラジル社会を支える存在となりました。現在ブラジルには、160万人以上の日系人が暮らしています。

花壇での遊び、パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ、1950年頃 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

花壇での遊び、パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ、1950年頃
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

シャカラ・アララの中心地、パラナ州ロンドリーナ、1950年代 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

シャカラ・アララの中心地、パラナ州ロンドリーナ、1950年代
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大原にとって写真とは  ー  本展を象徴する作品

大原は、ブラジルへ渡ってから70年間、一日も欠かさずに日記を書き続けました。下記はその一部です。

猫の目の如き天気がざあざあっ

時々灰色の雲が通ると大粒の水滴が落ちる

太陽にてらされて まっ白い糸が

天と地をつなぐやうに思える

(大原治雄日記より)

特筆すべきは、優れた表現力ですが、大自然を相手に一喜一憂する日常を書き綴ることによって、不安に波立つ心を鎮めていたのかもしれません。

ある年、霜害で農園のコーヒーの木が枯れてしまい、一家は10年間厳しい生活を送りました。その間にも、大原は、頭を抱えた自分自身のポートレイトを撮影し、ユーモアを感じさせる余裕さえ見せています。そして、再び農業が軌道に乗った後に撮影したのが、本リリース表紙のセルフポートレイトです。

画面を広く覆う朝の大空は、原生林を切り開いたからこそ現れた「空」と「水平線」であり、大原はこれを繰り返し撮影しています。開拓の象徴である広い空を背景に、くわえ煙草で、指先で鍬を操り、軽々とバランスを取る大原が、「天と地をつなぐやう」な姿として、撮影されています。苦難の日々を乗り越えた喜びに溢れる姿ですが、大原自身は画面右端に立っていることから、大原は、この写真の主役をブラジルの大地と空と捉えていることがわかります。本展を象徴する作品です。

抽象:サン・ジェロニモ通りの家にて、パラナ州ロンドリーナ、1969年頃 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

抽象:サン・ジェロニモ通りの家にて、パラナ州ロンドリーナ、1969年頃
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

ソテツ、サン・ジェロニモ通りの家にて、パラナ州ロンドリーナ、1969年 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

ソテツ、サン・ジェロニモ通りの家にて、パラナ州ロンドリーナ、1969年
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

渦、パラナ州ロンドリーナ、1957年 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

渦、パラナ州ロンドリーナ、1957年
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

大原の写真は、おおらかな大地と農作業の喜び、家族へ注がれる慈愛の眼差しに満ちています。また、スナップのような軽やかな印象の作品も、実は、自然光の取り入れ方、人物の動きや構図などが、綿密に計算されていることが見て取れ、大原の優れた観察力と表現力が感じられます。

また、近代写真の実験的精神をふんだんに取り入れながら、日常生活の中に「美」を見出し、独自の世界を作り上げようとする真摯な取り組みには、新しいものへの挑戦を恐れない精神の強さを感じることができます。人生の大切な時間や身の回りのものごとを、丁寧な手法で、写真芸術として開花させ、再び家族と共有する楽しみこそが、大原の生きる希望だったのではないでしょうか。

雨後のロンドリーナ駅の操車場、パラナ州ロンドリーナ、1950年代 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

雨後のロンドリーナ駅の操車場、パラナ州ロンドリーナ、1950年代
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

泥:ブラジル通り、パラナ州ロンドリーナ、1950年 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

泥:ブラジル通り、パラナ州ロンドリーナ、1950年
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本展のみどころ ― 180点のモノクロ作品が語るもの

治雄の娘・マリアと甥・富田カズオ、パラナ州ロンドリーナ、富田農園、1955年 ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

治雄の娘・マリアと甥・富田カズオ、パラナ州ロンドリーナ、富田農園、1955年
ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

大原は、開拓したロンドリーナの町の発展は記録しましたが、過酷な労働や戦時中の混乱は、いっさい撮影しませんでした。あくまでも生活に根ざし、アマチュアの“農民写真家”を貫いたのです。農業を楽しみ、命を育む大地の恵みに感謝し、そして、新しい物事を学び、想像力を失わないこと ー それが、写真を通して、大原が子どもたちに伝え、残したかったことかもしれません。大原の生涯を支えた写真が湛える豊かな表現力と深い精神性は、時代を超えて、人々の心に響くことでしょう。

幸夫人が1973年に亡くなると、大原は、9人の子どもたち一人ひとりのために、 過去の膨大なネガを見直して編集し、家族の歴史を一冊にまとめた「アルバム帖」を作成します。1年間暗室にこもって一冊あたり約300枚もの写真を焼き、貼り付け、9冊を仕上げました。本展では、その貴重な「アルバム帖」も展示いたします。

© Saulo Haruo Ohara

 

 

 

 

 

 

 

1999年、大原は家族に見守られながら、89歳で永眠します。治雄と幸夫人に始まった大原家は、現在70人を超す大家族となっています。2008年、日本人のブラジル移民100周年記念の年に、遺族により、オリジナル・プリント、約2万枚のネガフィルム、写真用機材、蔵書、日記など一連の資料が「モレイラ・サーレス財団」に寄贈されました。本展では、同財団のコレクションよりモノクロ作品約180点を展示いたします。

 

大原治雄 Haruo Ohara (1909-1999) 略歴

セルフポートレイト:富田農園の竹林にて、パラナ州ロンドリーナ 1953年  ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

セルフポートレイト:富田農園の竹林にて、パラナ州ロンドリーナ 1953年  ⒸHaruo Ohara/Instituto Moreira Salles Collection

1909年11月5日、高知県吾川郡三瀬村石見に、農家の長男として生まれる。1927年、17歳で、家族らと共にブラジルへ移民として渡り、初めサンパウロ州のコーヒー農園で働いた後、1933年、パラナ州ロンドリーナに最初の開拓者として入植する。1938年、小型カメラを手に入れ、コーヒーや果樹栽培の合間に趣味で撮影を始める。独自に研究を重ねながら技術を習得し、次第にカメラに没頭。1951年、ロンドリーナ市の新空港建設のため、市街地に生活を移し、「フォトシネクラブ・バンデイランチ」(サンパウロ)に入会。農業経営の一方、60年代後半まで国内外のサロンに積極的に参加。当時は無名のアマチュア写真家だったが、1970年代はじめから徐々に知られるようになり、地元新聞などで紹介される。1998年、「ロンドリーナ国際フェスティバル」および「第2回クリチバ市国際写真ビエンナーレ」で、初の個展「Olhares(眼差し)」展が開催され、大きな反響を呼ぶ。1999年8月、家族に見守られながらロンドリーナで永眠。享年89歳。2008年、日本人ブラジル移民100周年の機会に、遺族により写真と資料の一式が、ブラジル屈指の写真史料アーカイヴズであるモレイラ・サーレス財団に寄贈された。2015年、NHKドキュメンタリー番組「新天地に挑んだ日本人~日本・ブラジル120年~」「国境を越えて―日本―ブラジル修好120年」で、大原治雄が日本で初めて紹介され反響を呼ぶ。

 

モレイラ・サーレス財団  INSTITUTE MOREIRA SALLES (IMS)

大原作品の所蔵館。ブラジルの銀行Unibanco(ウニバンコ)が設立し、モレイラ・サーレス家の出資により運営されている文化財団。写真、音楽、文学、映像部門のコレクションを形成。研究、展示の他、さまざまな出版も手がけている。

 

本展開催までの経緯

本巡回展の皮切りは、6月、大原の出身地である高知県にて“里帰り”展として開催され、次いで、17歳でブラジルへ出航した神戸港近くの伊丹市へ巡回、そして当館での展示が最終地となります。大原治雄の写真集がブラジルから日本へ2009年に初上陸した地が、ここ清里でした。ブラジル屈指の写真コレクションを誇るモレイラ・サーレス財団は、日本での大原治雄展開催の機会を求め、最初に当館へ写真集を寄贈。しかし当時は開催が実現せず、2015年「ブラジル・日本国交120周年」を機会に、ブラジル大使館から再度打診があり、7年越しで、高知県立美術館、伊丹市立美術館、当館の3館での開催が実現しました。

 

■会期中の無料デー

❶「ハルオ・デー」11月5日は大原治雄の誕生日です。当日は入館料が無料となります。

「山梨県民の日」11月20日は山梨県民の日。当日は入館料が無料となります。

 

写真家・平間至によるギャラリートーク

NHK「日曜美術館」(2016年5月放送)の大原治雄特集で取材を受けた平間至氏が、写真家の視点から読み解いた大原作品の魅力を語ります。

●11月12日(土)午後2時~3時 入館料のみ/予約不要

 

<参考展示>サウロ・ハルオ・オオハラによる作品展

「Aurora do Reencontro 再会の夜明け」

サウロ・ハルオ・オオハラ《Aurora do Reencontro再会の夜明け》ⒸSaulo Haruo Ohara

サウロ・ハルオ・オオハラ《Aurora do Reencontro再会の夜明け》ⒸSaulo Haruo Ohara

サウロ・ハルオ・オオハラ(1972)は、大原治雄の孫で、移民三世。サウロ氏は、ブラジル・ロンドリーナに生まれ、大学で法学を学んだ後、スイスで写真を学び、写真家となりました。サウロ氏は、高知県立美術館での祖父「大原治雄」展に際して、自らのルーツである高知県吾川郡いの町を訪れ、2週間滞在しました。そして、滞在中に撮り下ろした写真を、プラチナ・プリント用に開発されたいの町名産の和紙 「土佐白金紙」にプリントしました。プラチナ・プリント技法による作品の収集・展示を基本理念のひとつとする当館では、大原治雄展と同時にサウロ氏の祖父の原風景を見つめる作品「Aurora do Reencontro ― 再会の夜明け」(プラチナ・プリント作品5点、モノクロ・プリント約10点)を展示します。

協力:いの町紙の博物館(高知県)

 

 

 

 

 

 

 

大原治雄について過去の放送

NHK Eテレ「日曜美術館」(2016年5月22日)

NHK ETV特集「移民の国に咲いた花~日本ブラジル120年~」(2015年11月28日)

 

■K・MoPAで星をみる会

K・MoPA恒例、星の美しい清里ならではの秋の観望会です。秋の星空について、また天文学における最新の話題などを専門家にお話いただく少人数の気軽な催しとして「いつか行ってみたい」というお声も頂戴しています。講師の梅本智文先生は東北大学卒の理学博士で、K・MoPAの講師としてお迎えするのは今回でなんと10回目。毎回テーマを変えてお話くださいます。天文ファンも初心者も、そしてリピーターの方も大歓迎です。 雨天の場合もレクチャーがございます。 どうぞふるってご参加ください。

梅本智文講師によるレクチャー

梅本智文講師によるレクチャー

◎日時:11月26日(土)午後5時~7時 

●講師:梅本智文(国立天文台 野辺山宇宙電波観測所 助教)

参加費:1,000円(入館料を含む・小中学生は無料)

友の会・会員は無料

定員:15名 要予約

✻参加申し込みは、11月25日までに、ご住所・氏名・参加人数をお知らせください。

井津建郎「インド — 光のもとへ」

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開催概要

展覧会名:井津建郎「インド ― 光のもとへ」Kenro Izu: Eternal Light

会  期:2016年7月2日(土)~10月10日(月・祝)

休  館 日:6/20(月)~7/1(金)、7,8月は無休、9月以降は毎週火曜日

会  場:清里フォトアートミュージアム

開館時間:10:00~18:00(入館は閉館30分前まで)

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井津建郎《インド 永遠の光》より   昨年末からクンブ・メーラのためのテント村設置に従事してきた労働者の妻、ニラム・デビの手。夫婦はビハール県から季節労働者としてアラハバッドに来ている。2013年1月 (クンブ・メーラとは「水差しの祭典」の意。世界最大の宗教的祝祭とも言われるヒンドゥー教の大祭で、12年に一度行われる。祭りの行われる55日間に、最多1億人とも言われるインド中のヒンドゥー教徒が、罪を洗い流そうと、聖なる河ガンジスで一斉に沐浴する。)

 

清里フォトアートミュージアム(略称:K・MoPA、所在地:山梨県北杜市、館長:細江英公)は、ニューヨークを拠点に活動する写真家・井津建郎(いず けんろう、1949)の個展「インド ― 光のもとへ」を2016年7月2日(土)~10月10日(月・祝)に開催いたします。《インド 祈りのこだます地》シリーズと、《永遠の光》シリーズ、約120点をまとまった形で発表するのは、世界初となります。

本展は、ヒンドゥーの神に祈る人々をとらえた<祈りのこだます地>、家族が一緒に最期の時を過ごすための施設「解脱の家」を撮影した<解脱>、聖なるガンジス河岸にて行われる「最後の儀式」をとらえた<荼毘>、夫の死後、祈りの日々を過ごす未亡人たちをとらえた<寡婦>、そして<孤児>などから構成されています。

ヒンドゥー教徒は、死を、この世からの解脱であり、“光”のもとへ旅立つ出発点と信じています。作品には、敬虔な祈りに支えられた彼らの「生と死の尊厳」と、井津がヒンドゥーの人々に見出した“光”への畏敬の念が表現されています。井津の作品と、当館の基本理念である「生命(いのち)あるものへの共感」、それは深いところで繋がっているのです。

 

 

 

 

 

 

 

《インド 永遠の光》より、1日中荼毘の火が絶えることのない、ベナレスの火葬場マニカニカ・ガートの朝。ベナレスはヒンディー語で「光の街」を意味し、聖地として2千年以上の歴史を持つ。 ヒンドゥー教徒にとっては、ベナレスで死に、ガンジス河畔で荼毘に付されれば、無限の輪廻転生から解脱できると信じられている。2015年1月

《インド 永遠の光》より、1日中荼毘の火が絶えることのない、ベナレスの火葬場マニカニカ・ガートの朝。ベナレスはヒンディー語で「光の街」を意味し、聖地として2千年以上の歴史を持つ。
ヒンドゥー教徒にとっては、ベナレスで死に、ガンジス河畔で荼毘に付されれば、無限の輪廻転生から解脱できると信じられている。2015年1月

困難な撮影条件が飛躍に

「解脱の家」での撮影は、例外なく、喜んで人々に受け入れられました。ところが、現実には薄暗く、小さな部屋に、井津の代名詞となっている特注の大型カメラを持ち込めないことから、中型サイズのカメラに変更せざるを得ませんでした。そのため、井津が最も定評を得ている優美な褐色系のプラチナ・プリント作品が作れず、いわゆる白黒トーンのモノクロ・プリントでの作品制作となりました。写真家として非常に大きな環境の変化と対応を強いられたことが、人との距離を縮め、井津の撮影に大きな自由度を生み出しました。井津が、初めて発表するモノクロ・プリントの比類ない滑らかな美は、見る人を写真の世界に引き込み、魅了することでしょう。結果的には、困難な撮影条件を糧に、井津は大きな飛躍を遂げたのです。

夫の死後、未亡人は、ヒンドゥーの教えに添って、 家族の元を離れなければなりません。ガンジス河岸の「寡婦の家」に、 互いに寄り添って生きる未亡人は、「わたしは永遠に悲しみ、永遠に幸せ」と井津に微笑みかけたと言います。

井津が、ヒンドゥーの人々に見た「永遠の光」とは何か―。井津建郎の新境地と、絶えざる挑戦の日々がここにあります。

 

 

 

 

 

《インド 祈りのこだます地》2012年

《インド 祈りのこだます地》2012年

《インド 永遠の光》より、髪を剃られて喪主の装いを纏うチタドゥはまだ5歳。     次々と両親を亡くし、残った最期の家族である。夕暮れのナランプール火葬場にて。2013年2月

《インド 永遠の光》より、髪を剃られて喪主の装いを纏うチタドゥはまだ5歳。 
次々と両親を亡くし、残った最期の家族である。夕暮れのナランプール火葬場にて。2013年2月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《インド 永遠の光》より、サッドプール火葬場は、ベナレスから東45キロのガンジス河畔にある。2014年1月

《インド 永遠の光》より、サッドプール火葬場は、ベナレスから東45キロのガンジス河畔にある。2014年1月

《インド 永遠の光》より、アンジャリは6〜7歳と推定される女の子。僧侶が運営する孤児院、マヒラ・バル・カリヤン・アナタレイに住む。キャロンというゲームが好きで、将来は教師になりたいと言う。(後略)ブリンダバン 2014年1月

《インド 永遠の光》より、アンジャリは6〜7歳と推定される女の子。僧侶が運営する孤児院、マヒラ・バル・カリヤン・アナタレイに住む。キャロンというゲームが好きで、将来は教師になりたいと言う。(後略)ブリンダバン 2014年1月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井津建郎とインドとの出会い

井津が、初めてインドを撮影したのは1996年でした。本展で展示する作品は、主に2008年から8年間、年に2、3回の長期滞在を繰り返して撮影したものです。撮影は、ガンジス河添いの聖地ベナレス、アラハバット、ブリンダバンにて行われました。

井津は、1996年、インド・ベナレスの石造遺跡を撮影中に、死者が荼毘(だび)に付される様子を見て以来、この地に興味を抱いていました。ベナレスは、ヒンドゥー教徒が、死後ガンジス河に流されることを切望する聖地です。ガンジス河畔で、旅立つ人が炎に包まれる側で談笑する家族を見ていた井津は、やがて、白い灰と燃え残った塊が喪主によって河に投げ入れられ、家族が立ち去り、後には何も残っていない ― その様子に驚いたと言います。異なる死生観を目の当たりにしてから10年の後、井津のインドでの本格的な撮影が始まりました。

井津自身も、家族の死を体験したなかで、人はどのように生き、最期の時を迎えるのかということを、より身近に、より深く考えるようになったと言います。その思いに駆り立てられるかのように、撮影とプリントを繰り返しては、再びその場所へ戻っていきました。あくまでも静謐なモノクロームの世界の中に、写真家自身の問いかけが、澱のように漂い、息づいています。

《インド 永遠の光》より、夫婦は70年間連れ添ってきたという。旅立ち間近の夫が、無意識ながらも寝床でむずかると、妻が寄り添い、手を取り、何かを夫に囁いた。男は静かになり、平安が訪れたようだった。意識がなくとも、長年連れ添った妻の声が、男を安らかにさせたのだろうか。その光景は美しかった。ベナレス、2013年2月

《インド 永遠の光》より、夫婦は70年間連れ添ってきたという。旅立ち間近の夫が、無意識ながらも寝床でむずかると、妻が寄り添い、手を取り、何かを夫に囁いた。男は静かになり、平安が訪れたようだった。意識がなくとも、長年連れ添った妻の声が、男を安らかにさせたのだろうか。その光景は美しかった。ベナレス、2013年2月

《インド 祈りのこだます地》2009年(プラチナ・プリント)

《インド 祈りのこだます地》2009年(プラチナ・プリント)

《インド 永遠の光》より、ブリンダバンに48年間住むというシャンティ・バイが語る。(中略)「人生の目的?そんなものは全て捨ててクリシュナ神とラダの慈悲のもとへ行くの。」「私は永遠に悲しみ、永遠に幸福です。」ブリンダバン 2014年2月

《インド 永遠の光》より、ブリンダバンに48年間住むというシャンティ・バイが語る。(中略)「人生の目的?そんなものは全て捨ててクリシュナ神とラダの慈悲のもとへ行くの。」「私は永遠に悲しみ、永遠に幸福です。」ブリンダバン 2014年2月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《インド 祈りのこだます地》2010年(プラチナ・プリント) 

《インド 祈りのこだます地》2010年(プラチナ・プリント)

《インド 永遠の光》より、シャウリア(男児)は、天気の良い日、庭のベッドに寝かされていた。ムラデビ村は大体において貧しい農村だが、ベナレス・ヒンドゥ大学に事務職で勤める父を持つこの家は、比較的裕福に見える。幼児の大きな瞳に太陽と木々、世界が映る。 ベナレス、2014年8月

《インド 永遠の光》より、シャウリア(男児)は、天気の良い日、庭のベッドに寝かされていた。ムラデビ村は大体において貧しい農村だが、ベナレス・ヒンドゥ大学に事務職で勤める父を持つこの家は、比較的裕福に見える。幼児の大きな瞳に太陽と木々、世界が映る。
ベナレス、2014年8月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真集『Eternal Light』は、Steidl/Howard Greenberg Galleryにて発行予定、ただし時期は未定。

当館における過去の井津建郎展

「アンコール遺跡 光と影」(1996年)(1997年~2001年まで、全米11箇所を巡回)

「アジアの聖地」(2001年)

「ブータン 内なる聖地」(2008年)

井津建郎(いず けんろう)略歴

1949年、大阪に生まれる。山口県・岩国市での中学校在学中に写真を始め、日本大学芸術学部写真学科へ進学。1970年、20歳で写真家を目指し渡米。1974年にKenro Izu Studioを立ち上げ、主に宝石を撮影するコマーシャル・スタジオを運営する。1979年、初めてエジプトを訪れ、“聖地”に深く魅せられる。以後、世界各地の遺跡の撮影を始め、その後出会った古典技法のプラチナ・プリントによって遺跡シリーズの作品制作を始める。14×20インチ(約36×50㎝)のフィルムを使用し、機材の重さが100キロとなる大型カメラでヨーロッパ、中東、アジア各地の聖地を撮影している。

1993年に訪れたカンボジア・アンコール遺跡群に深く感銘を受け、この地に小児病院建設を決意する。写真家としての活動の傍ら、1996年NPO「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダー」(略称フレンズ)を設立。1999年「アンコール小児病院」を開院し、2013年には現地スタッフに運営を委ねるまでとなった。また、2015年にはラオスにて「ラオ・フレンズ小児病院」を創設。現在も運営に携わっている。

フレンズは、“アートは社会を変え得る”(Art can make a difference.)というメッセージをこめて、1997年より毎年チャリティ・オークションを主催。世界の数百人の写真家も井津の呼びかけに賛同し、作品を無償提供して活動に協力している。米・グッゲンハイム・フェローシップをはじめ、数々の奨学金を受賞したほか、2007年には、写真界のアカデミー賞と言われる「ルーシー・アワード」のヴィジョナリー賞を受賞。

2016年2月、インドの撮影をいったん終了し、現在は、イタリアのポンペイ遺跡を撮影するプロジェクトを開始した。http://www.kenroizu.com

会期中のイベント

KMoPAチャリティ・トーク&ライブ2016

「小児病院をつくった写真家・井津建郎」

日時:7月30日(土)14:00~16:00 会場:当館音楽堂

K・MoPAが支援するラオ・フレンズ小児病院とアンコール小児病院は、世界で活躍する写真家・井津建郎が創設しました。なぜ彼は、異国の地に病院をつくろうと決意したのか?ノンフィクション作家の山岡淳一郎が、その原点にせまります。収益は、同病院と東日本大震災の被災者支援団体「いのち・むすびば」に寄付します。

第一部<トーク> 出演井津建郎、山岡淳一郎(ノンフィクション作家)

第二部<ライブ> 出演ウォン・ウィンツァン

参加費:一般3,000円、2名以上はお一人2,000円、小・中学生は無料 友の会会員は各1,000円引き

要予約/定員120名/全席自由

ウォン・ウィンツァン

ピアニスト、即興演奏家、作曲家

1949年神戸生まれ、東京育ち。19歳よりジャズ、前衛音楽、フュージョン、ソウルなどをプロとして演奏。NHK「にっぽん紀行」Eテレ「こころの時代」テーマ曲も手がける。東日本大震災の被災地支援や平和のチャリティ演奏を続けている。超越意識で奏でる透明な音色で「瞑想のピアニスト」と呼ばれている。http://www.satowa-music.com

アーティストによるギャラリー・トーク:「インドー光のもとへ」 

日時:7月31日(日)13:00~15:00

出演:井津建郎、山岡淳一郎(ノンフィクション作家)

写真(中)は、インドにて撮影中の井津建郎。さまざまな撮影エピソードなどを展覧会場にてお話いただきます。(撮影:Nandita Raman)

山岡淳一郎(写真下)/ 愛媛県生まれ。「人と時代」を共通テーマに政治、近現代史、医療、建築など分野を超えて旺盛に執筆。時事番組の司会も務める。著書は『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『原発と権力』『国民皆保険が危ない』他多数。

ウォン・ウインツァン

ウォン・ウインツァン

山岡淳一郎

山岡淳一郎

インド・エローラにてサドゥを撮影中の井津建郎(撮影:Nandita Raman)

インド・エローラにてサドゥを撮影中の井津建郎(撮影:Nandita Raman)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■会期中のワークショップ

プラチナ・プリント・ワークショップ

プラチナ・プリントとは、鉄塩の感光性を利用し、プラチナやパラジウムを使用して焼き付ける古典技法です。白から黒までの階調が豊かで、微妙なグラデーション表現が可能です。すべての写真技法のなかで、最も保存性が優れており、画像は劣化・退色しません。当館では、プラチナ・プリント作品の収集だけでなく、技法の継承を目指し、毎年プラチナ・プリント・ ワークショップを開催しています。 フィルムに触れたことのない方も、 手作りの印画紙に写真を焼き付け、現像するという写真の原点を体験することで、写真の新しい見方、あるいは表現世界の広がりを得ることができるでしょう。 暗室作業は初めてという方も、作品制作に取り入れたいという方も、 講師の細江賢治先生が丁寧に指導します。

日時:9月24・25日(土・日)2日間 講師:細江賢治(写真家)

参加費:30,000円(入館料を含む)友の会会員は27,000円

定員:8名要予約

*参加のお申し込みは、9月17日までに、ご住所、お名前、参加人数をメールにてお知らせください。

印画紙となる用紙にネガを乗せて、乳剤を塗る範囲に印を付けます。

印画紙となる用紙にネガを乗せて、乳剤を塗る範囲に印を付けます。

乳剤をスポンジで塗ります。

乳剤をスポンジで塗ります。

現像中。像が出て来ましたね。

現像中。像が出て来ましたね。

 

HP連載: 「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生 …. 第一回

K・MoPAでは、現在「井津建郎:インド―光のもとへ」を好評開催中です。生と死の尊厳というテーマに踏み込み、新境地を見出した井津建郎。ニューヨークに拠点を置き、プラチナ・プリント作品では世界屈指と言われる写真家でありながら、アジアに小児病院を創設、NPOの代表を務めるなど、異色の経歴の持ち主です。展覧会にあたり、ノンフィクション作家・山岡淳一郎が、来日中の井津建郎にロング・インタビュー。医者を志した岩国での少年時代から一転、写真家を目指しニューヨークへ!そしてエジプト、カンボジア、ブータンから現在のインドへの旅に至った半生を書き下ろし、その人物像にせまりました。本ページで全6回の連載をいたします。どうぞお楽しみください。

 

「石」と「人」をめぐる冒険 井津建郎の半生

山岡淳一郎

 <第一回>

老いた男が粗末な寝台に横たわっている。

娘だろうか、サリーをまとった女が傍らに座り、老人の手を握る。死は近い。中年の男性が床にあぐらをかき、本を開いて手で拍子をとりながら語りかけている。古代インドの長編叙事詩、ラーマーヤナを朗誦しているようだ。逝く人の胸奥に向けて……。

井津建郎の最新写真集、『永遠の光(ETERNAL LIGHT)』の一場面である。

ここ数年、井津は聖地ベナレスの「ムクティ・バワン」に通った。ヒンディー語でムクティとは「解脱」、バワンは「館」。ただ、ガイドブックはあけすけに「死を待つ家」と訳している。死期が迫った人と、その家族が永訣のときを迎えるために泊まる宿である。

ガンジス河畔のムクティ・バワンは、かつて死を待つ人で溢れていたが、インド経済の発展著しい現在、閑古鳥が鳴いている。お金を持った人びとは病院や、特別に用意したホテルで死を迎える。つまり、井津がカメラを向けた人たちは、皆、貧しい。昔ながらの安宿で看取り、看取られ、すぐ荼毘に付し、そそくさと帰っていく。暮らしに余裕などない。

ところが、写っている生者も死者も「苦」を超えた静けさに包まれている。この澄み切った静謐さは何がもたらすのだろう。時がゆっくりと循環しているようだ。井津は、語る。

「よく『死を待つ家』と言いますが、違うなぁと思います。どんなに貧しくても、尊厳が保たれていて、じっと死を待つのではなく、出発する感じ。来世へ橋渡しをしてもらって旅立つ。宿には司祭もいます。皆さん、苦悩多き現世からの解脱を信じて徳を積もう、と。死を『自然』として受けとめているのでしょう。火葬場で写真を撮らせてほしいと頼んで、家族に断られたのは過去3年間で1度だけ。日本じゃ考えられませんよね」

『永遠の光』は不思議な感覚を呼び起こす。過去が現在に溶け込み、現在が未来を照らしだす。終盤で、どんでん返し(?)のような肖像が現れ、無窮のときの流れに吸い込まれていく。写真集全体が「旅」のようでもある。

ふと、疑問がよぎる。写真家の枠に収まらない井津は、どんな人生の旅路を経てここに至ったのだろうか。大学2年で日本を飛び出してニューヨークに渡り、スタジオを構えて広告写真で成功した。しかし表現として飽き足らず、ピラミッドを手始めに「遺跡」を撮って、独自の境地を切り開く。アンコール・ワットの撮影を機にカンボジアの子どもたちの悲惨な実情を知り、日米に非営利団体を設立して小児病院を建てる。ラオスにも小児病院を開いた。ブータンではポートレートに覚醒し、インドで聖地の奥へと踏み込んだ。と、さらりとなぞっただけでも、かなり起伏に富んだ人生が目にうかぶ。

井津は、1949年に大阪市で生まれている。幼いころ、新聞記者の父と母は離婚。母と一緒に山口県岩国市に移り、中学、高校時代を過ごした。それでは、シングルマザーと細菌学者に憧れる少年が暮らす岩国から人生の物語を始めよう。

第二回につづく

 

◎井津建郎 /写真家(1949-)

20歳で渡米後、100キロの大型カメラで世界の遺跡を撮影する。写真のアカデミー賞、ルーシー・アワード受賞(米、2007)。小児病院建設のため認定NPO法人フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーを創設、同USA理事、名誉会長。同団体JAPAN理事、副代表。

 

◎山岡淳一郎 /ノンフィクション作家(1959-)

愛媛県生まれ。「人と時代」を共通テーマに政治、近現代史、医療、建築など分野を超えて旺盛に執筆。時事番組の司会も務める。著書は『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『原発と権力』『国民皆保険が危ない』他多数。

 

井津建郎《夜明けのギザのピラミッド、エジプト》1985年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《夜明けのギザのピラミッド、エジプト》1985年
プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラノ・ララク山のモアイ像、イースター島》1989年 プラチナ・プリント、当館蔵

井津建郎《ラノ・ララク山のモアイ像、イースター島》1989年
プラチナ・プリント、当館蔵

 

 

 

 

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